09
食事を終えてしばらく経った頃、宣言通りクラエスがやって来た。
彼は不遜な笑みを顔に貼りつけ、部屋の外に出るように指示を出した。アンヘルが無言で従ったので、私もそれに倣って扉の向こうに足を踏み出す。眩く辛い日差しに内心辟易としながらも、好奇心に駆られ、私は廊下の欄干から身を乗り出してみた。
二階から見下ろす中庭は潤沢に光を浴び、何本も植樹された棗椰子が青々とした陰を地面に落としている。さほど広い庭ではないが、砂漠地帯の権力象徴とも言える噴水は滔々と水を流し続け、金色と青のタイルで彩った表面は光を乱反射して艶めいていた。わあ本当にお金持ちなんだなあ、とかなんとか田舎者根性丸出しで考えていると、それを見かねたらしいクラエスに背後から注意されてしまう。
「何をぼーっと突っ立っているのですか。行きますよ」
その言葉にしぶしぶ欄干を掴んでいた両手を離し、私は既に歩き出していたアンヘルの背を追った。
クラエスに連れられて別の部屋へと移動している最中、私はきょろきょろと物珍しく周囲を見渡した。しかし隣に並んでアンヘルの横顔を見てみると、彼の眼差しは深い思案に暮れているようだった。
そう広い屋敷ではないから、私達はすぐに目的の場所へと連れてこられた。中庭を挟んだ一階部分の建物にある一室。木製の扉を開いて案内された先は、床一面に暗紫色の染織を敷いた、意外にも物の少ない部屋だった。
「あら、来たのね」
「おお、ようやく来やがったか」
部屋中に焚き染められた、甘く濃密な香が鼻腔をつつく。
私はアンヘルの隣に並びながら、向かい合う二人の人物を視界に収めた。ひとりは、昨晩のあの女――ユリアナだ。彼女は緋色のクッションの山にもたれかかりながら、煙管を片手に優雅に紫煙を吐き出している。そしてもう一人は、床に胡坐をかく漆黒の軍服をまとった男だ。彼は私達に気がつき、首だけで振り返ってその銀色の瞳を眇めた。
「お前は、あの時の……」
「よう坊主、シケた顔してんなあ。そんなに俺に会えたのが面白くねえってのか」
「不愉快極まりないに決まっている。……確か、ハヤールと言ったか。ふざけた名前だな」
ハヤール――アンヘルをぼこぼこにしたあの軍人だ。彼はアンヘルの刺々しい物言いに機嫌を損ねるどころか愉快そうに笑い、それに対して僅かにたじろぐアンヘルを面白がった。
「亡霊だなんて、戸籍も家族も未来もなーんもねえ皇帝直属軍にはぴったりな名前だろう? 俺も気に入ってんだ、褒めてくれて心底嬉しいぜ?」
「……世間話はそれくらいいでいいかしら? 幽霊の与太話に付き合わされるそこの坊やが可哀想ね」
「おうおう、ファランドールの女狐様は気が短いことだな。その元幽霊を飼っているのはどこの誰だったか」
ユリアナから呆れた眼差しを注がれ、ハヤールは肩を竦めてそう言った。
皇帝直属――まさか、そんな大層な軍人に追われていたというのか。平凡な奴隷として暮らしていたなら一切合切関わりはなかったろうに、やはりアンヘルが抱えている事情は大変なものらしい。私は内心冷や汗をかきながら、なおもハヤールを睨み続けるアンヘルを見やった。
「まあ、そんなに警戒するんじゃねえよ。てめーみたいな細っこいチビなんて、取って食いやしねえから」
「そうそう、だからさっさと座ったらどうかしら? 皇帝直属軍だなんて面倒くさいもの、私だってとっとと追い払いたいんだから」
そう促され、私達はおとなしく床上に座った。背後でクラエスが扉を閉めると、窓のない空間は途端に薄暗くなってしまう。
薄闇の中に沈黙が満ちる。ユリアナは黙ったままハヤールを睨みつけるだけだし、ハヤールはにやにやと訳の分からない笑みを浮かべるばかりだ。私はなんとも居心地の悪い気持ちになりながら、これは一体何の集まりなのかと思案する。ハヤールに敵意はなさそうだが、彼の腰には変わらず大振りの半月刀が吊り下げられていた。
「ま、適当に自己紹介をしておく方がいいな。俺はハヤール。あだ名みてえなもんだが、まあそのまま呼んでくれ。身分は皇帝直属軍在籍、特殊戦闘部隊銀獅子所属だ」
「……皇帝直属軍、って。正直なに?」
「おうおう、嬢ちゃん興味あんのか? 皇帝直属軍ってのはなあ、まあけったいな連中の集まりよ。皇帝の命令だけに従い、正規軍とは独立した指揮系統を持っている特別軍だ。普段はもっぱら皇帝の狐やらガザーラ狩りに付き合ってんだぜ、カッコいいだろ?」
「へえー。大変そう」
自分の名前を亡霊と言ったり、どうやらこの男は比喩表現が非常に好きらしい。即興歌遊びを楽しむ帝国人らしいといえばらしいが、正直少し回りくどい――とにかく彼の説明する限りでは、やはり私とはかけ離れた世界に住む存在だということは理解した。
「ま、今回はその限りじゃねえんだがな。俺は勅命を受けてここに来た」
「……どうせ“漆黒のマリア”関連だろう」
「ああ? ちげーよ、小難しいことは俺の専門外だ。俺の目的はただ一つ。アンヘル・デル・カスティージャの身柄を早急に確保したのち、イベリア王国が都に送り届けることだ」
――イベリア。
その響きに、思わず私は肩を揺らした。いつのまにかアンヘルへと体の向きを変えていたハヤールは、先程の人を小ばかにしたような表情とは打って変わり、真剣な面持ちで彼に語りかけている。
イベリア王国が都に送り届ける。イベリアの都に。イベリアに、帰れる――――それは言葉を向けられたアンヘル自身ではなく、私の心を強く打ち鳴らした。ぎゅっと拳を握りしめ、私は食い入るようにハヤールの顔を見つめる。……イベリアに、帰れる。この話に上手く乗じることができたなら、私は故郷に帰ることができるのだ。
「っ……、」
「道楽はここまでだぜ。敵軍に送り届けられるのは非常な屈辱だろうが、そうも言ってられねえだろう? 第一、自分でも理解してんじゃねえのか。てめーは今ここでこうしていられる立場じゃねえってことをな。なあ、アンヘル・デル・カスティージャ――“イベリアのアンヘル”、なんたってお前は……」
銀色の眸が獰猛な光を湛える。アンヘルは顔を強張らせ、膝の上で爪が食い込むほどに拳を握った。
「イベリア王国の第二王子であり、第一位王位継承権の持ち主だ。イベリアの王が病に臥せっている今、てめーが一番しなくちゃならねえことは、ここでありもしねえ幻想を追い求めることじゃねえだろう」
――そう言って、ハヤールは円月刀の柄に指を添えた。