06
イフレンとフェスは近いとはいえども、順調に行っても半日以上はかかる行程だった。
私は一人馬に乗せてもらえたので、水袋で腫れた顔を冷やすことに専念できた。茫漠と広がる大地を蛇行する幅広の街道。その左右に乱立するアトラスシダーの林を何度も抜けると、標高も下がり徐々に周囲の気温が上がってきた。私は長衣の首回りの布を引っ張り上げて被ると、せめてもの日除けにする。
乾ききった砂塵の吹き溜まった道を歩くことは、それだけで私に今までの記憶を蘇らせた。イベリア半島から売り飛ばされ、海峡を渡り、奴隷商に何日も灼熱の太陽の下を歩かされた記憶。過酷な旅路に同じ境遇の少女達が幾人も倒れていったのだから、今の状況はずい分とマシに違いない。金髪の男に捕まえられた当初は混乱するばかりだったが、ようやく私は自分の状況を整理しつつあった。
おそらく、アンヘルが関わっていることは堅気の問題ではなさそうだということ――それも私のような善良奴隷には考えの及ばないような。このまま関わり続けてもろくな目には遭わないだろうから、アンヘルを見捨てるに限るのだけど……人質にされている手前、それも上手く行くかは分からない。今後機会を見定める必要があるだろう。
「はあ……」
損得勘定に行き詰まりを感じ、私はちいさく溜息をこぼした。
不出来な頭を珍しく働かせたものだから、重い疲労感が肩にのしかかる。その上慣れない馬に長時間乗っているものだから、振動で全身筋肉痛だ。おまけにこの熱気。服と皮膚の間にわだかまる熱を逃がそうとしても、外気の暑さに辟易するばかりだ。水袋もすっかり温くなってしまっている。
せめて意識を飛ばさないようにと、私は先導するアンヘルの後頭部を見つめた。やや離れて隣に立つ金髪の男もよほど華奢だが、アンヘルはどちらかというとまだ発展途上という感じで、成長期特有の細く伸びた四肢が印象に残る。まだ十五、十六くらいだろう。私とそう齢も変わらない、この人の良さそうな少年が――一体どんな悪事に関わっているのか。しかしそれを聞くには憚れて、私は押し黙って長い旅路をやり過ごした。
「街が見えてきましたね」
延々と代わり映えのしない街道を歩き続け、気温も下がり始めた頃――生成りの外套をひるがえし、金髪の男が抑揚のない声で言った。
その言葉に面をさらに前方へと引き上げれば、砂塵の中に薄っすらと街の景色が浮かび上がっている。石や泥土で固めた土気色の建物の群集が、まるで山のように盛り上がってひとつの都市を形成している――ガザーラ・ハディージャ帝国連邦が西方の地方都市、フェスだ。
出発した時は早朝だったが、既に日は沈みかけ、紅く膨張とした太陽が街の外郭に被さっている。平坦な砂漠は朱色に染め上げられ、濃密な陰影がまだらに伸びていた。
「フェスは帝都並みの迷宮都市ですからね。せいぜいはぐれないでくださいよ」
「……はぐれさせるつもりも無いんじゃないか」
アンヘルの直球な突っ込みに、私は心底同意した。はぐれられるものならはぐれたい。そしてそのままばっくれたい。
そんなことを心の中で考えているうちに、私達はフェスの門へと辿りついた。
帝国の旗を飾り、色鮮やかな青いタイル(ゼリージュ)で覆われた巨大な門をくぐると、街特有の騒がしさがどっと身近に迫った。
砂漠の乾いた色合いに慣れた眸に、鮮やかな色の奔流が飛び込んでくる。行商人や踊り子、軍人や街頭職人……。黒々とした肌や西欧人らしい白皙の肌など、様々な人種の老若男女がせわしなく行き交う通り。アラビア語以外にもベルベル語や西欧の言語など、あちこちで囁かれる異国の響き。街頭から漂う香草やスパイスの香り、翳り始めた街には色ガラス製のランプに獣脂の明かりが灯された。とたんに五感を刺激し始める周囲の喧騒にとまどいつつ、アンヘルと共に、私達は金髪の男に導かれる。
フェスが迷宮というのはなるほどその通りだった。
門から街を貫く大通りから派生した無数の路が、複雑に絡み合い網の目状の路地を形成し、いくつもの袋小路を作り出している。私一人だったら確実に迷子になっていただろう――しかし男は慣れたもので、法則性もなにもない路地を迷わず突き進んでゆく。細い路地はヤギに乗った行商人や道を行き急ぐ女性など、人気はあるものの大通りよりはまばらだ。やがて濃密な暗闇が小路を満たす頃、男は一軒の壁の前で足を止めた。
「粗相のないようにしてくださいよ。気性の荒い女ですから」
「……ふぁらんどーるだっけ? というか私はよく事情が飲み込めてないんだけど……」
「フリア、君は口を閉じていればいい。事情は分からないだろうが、今は……」
細い路地の中でも一際目立つ真っ白な壁を前に、アンヘルが硬い声で言った。しかしそれを遮るように、金髪の男が鋭い言葉を挟む。
「理解していなかったのですか? 無知な奴隷の娘。ファランドールは帝国政府すらも顧客に収める武器商人一族ですよ。そしてアンヘル・デル・カスティージャは、不憫なことにその悪徳商人に狙われている。かわいそうに、あなたももっと賢かったなら、こんな事態には巻き込まれなかったでしょうに」
「……武器商」
「ま、せいぜい己の運命を呪うことですね」
男は歪んだ笑みを口元に刻むと、壁に埋め込まれた扉の取っ手に触れた。そして無造作に戸を開くと、その先へと私達を押しこむ。
扉の先にはまず直角に折れ曲がった通路があった。渋い顔をしたアンヘルと顔を見合わせるが、男に背中を押され、私達はその先へ進んだ。すると突然、天蓋に満点の星空を据えた中庭が姿を現す――冴えた風が頬を撫ぜ、私の横を通り過ぎて行った。
細い月がとろりと蜜色の光芒を庭に注いでいる。庭に植えられたデザートローズの花びらが風に舞い上がり、甘い匂いがあたりへ漂った。――武器商の拠点と言うからには、もっと無骨で物々しい空間を想像していたのに……その中庭は美しく誂えられ、夜の雰囲気も相まってどこか神秘的だ。
「クラエス? 帰ったのね」
夜の静寂を割る、静かな女の声が響いた。
その声の方向に向ければ、中庭を取り囲む建物と壁――タイルを貼ったイーワーンと呼ばれる壁の窪みで、人間が一人、立ち上がるのが見える。
「ただいま戻りました。貴女は憎らしくも何もお変わりないようで、こちらとしては安心しましたよ」
「はいはいご苦労様。連れてきたんでしょう? ……なに、子供が二人もいるじゃない。イベリアの坊やはまさか双子だったの?」
「少女の方はおまけですよ。まあ、煮るなり焼くなりご自由に」
クラエスと呼ばれた金髪の男は、女に向かってそう恭しく答えた。
女は呆れたように溜息をこぼすと、気を取り直したようにこちらに歩み寄ってきた。女は片手に金縁の円筒型ランプを持ち、その白くほっそりとした指先が闇の中で浮かび上がる。
「ふうん。銀髪だなんて珍しいわね、顔も悪くないし……奴隷にしたら良い値がつきそう」
「……っ、」
「冗談よ」
石榴のように赤い唇で弧を描いた女に、私はびくっと肩を揺らした。しかし驚きながらも見上げた女の顔を見て、一瞬私の思考は止まってしまう。
――綺麗な女性だった。白皙の皮膚は西欧の血を思い起こさせたが、彫像のように整った顔立ちは確かペルシア系特有の美貌だ。長い睫に縁どられた深い藍の眸に、短く切られた黒髪。女性の美しい顔は柔らかな灯明に照らし上げられ、濃やかな陰影に満ちていた。闇の中で浮かび上がるその姿は、まるで男を誘う妖魔のようにも見える。
「私はユリアナ・ファランドール。ファランドール家の後継で、実質的な指導者よ。……自己紹介はこれくらいでいいかしら?」
ユリアナと名乗ったその女は、そう言って挑戦的に微笑んだ。