04
軍刀のアンヘルに対し、男は大振りの円月刀だ。それを片手で易々と握り、湾曲した刀身でアンヘルの太刀筋をたやすく受け流してゆく。足場の悪い砂地で二人の立ち位置はくるくると変わり、男は飄々とした態度でその剣戟を楽しんでいるようだった。
アンヘルも腕が立つのかもしれないが、男は別格だった――剣に疎い私でも分かるくらい、アンヘルは男に剣で翻弄されていた。男の銀の瞳は無機質なきらめきを湛え、洗練された動作で繰り出される剣筋をいなしてゆく。
このままではアンヘルに勝ち目はないだろう。そうなる前に逃げるしかない、私はそう無情にも判断すると、視界に映ったアンヘルの愛馬を一瞥した。膝を折り砂地に伏せっているのを見ると、使い物にはならなそうだ。
「……ッ、」
一際高い金属音が意識の外から響きわたり、私はとっさに視線をアンヘル達へと戻した。
砂に足を取られたらしいアンヘルが、体勢を崩して地面に尻餅をついていた。彼はともすれば押し切られてしまいそうな体勢のまま、男と剣をぶつけ合っている。
「けっ、イベリア人って奴はどいつもこいつも軟弱だなあ! 肥沃な土地に住むってのはそれだけてめーの身も心も腑抜けるんだ、そんなんだからお国を征服されちまうんだよ!」
「馬鹿にするな……! 祖国はまだ征服されてはいない!」
「そうだったか? ま、それも時間の問題だってな」
男は力任せにアンヘルの剣を横に薙ぎ払うと、がら空きになった彼の腹に軍靴の先を叩き込んだ。砂地に吹き飛ばされたアンヘルを見て、思わず私は走り寄ろうと腰を浮かせる――逡巡に足を留めたのはほんの一瞬で、矢も盾もたまらず駆け出してしまった。同郷の人間をここで見捨ててしまうのは、さすがの私でも後味が悪すぎる。
身を折って激しく咳き込むアンヘルの傍に駆け寄った私を見て、男が片眉を上げた。彼は狐狩りを楽しむ猟師のように、得物を携え徐々に距離を詰めてくる。
「ああん? 嬢ちゃん、何のつもりだ? 遊んでやりたいのはやまやまなんだが、俺はまずそっちの坊やに用があるんでねえ。ちょいと退いてくれやしないかい」
「……う、人に物を頼むなら、まず礼儀ってものがあると思うのだけど……」
「おうおう、イベリアならそうかもな? だがここは残念ながら帝国だ。物を言うのは権力と武功であって、美辞麗句でもなければ格式ばった礼儀でもねえんだよ」
どうすればいいのか分からず、私は男の無機質な双眸をじっと見つめた。情に駆られたところまでは良かったが、そういえば私にこの状況を覆す力はないのだった。
……やっぱり、逃げればよかった。
男がじりじりと距離を縮めてくるこの状況が、心底私には恐ろしい。慣れないことはするものじゃないし、私にはどうする力もないんだから、やっぱり逃げた方が懸命だったのだ。じわじわと後悔の蝕む胸を押さえ、私はアンヘルを振り返った。
「ど、どうしよう、アンヘル……」
「君は逃げろ、フリア。どうせあの軍人の狙いは私だけだ。……祖国を侮辱された時点で、引き返すことはできない」
アンヘルは切れた口端の血を拭うと、そう静かに言い放った。彼は毅然とした態度で立ち上がったが、持っていた軍刀は先程のせめぎ合いで弾き飛ばされてしまっている。
私はそんな彼の背を見上げ、なんだか歯がゆいような気持ちになった。どういう事情かは分からないが、あの様子だと男はアンヘルを殺しにかかるつもりなのだろう。私が彼の立場だったらどんな汚い手でも使うし、命乞いだってするだろうに――アンヘルはまるでそんな素振りを見せない。
そんな彼の様子を見て、私は直感した。今のアンヘルを支えているのは誇りなのだと――何の役にも立たない、持っているだけ無駄な代物。
「ばかみたい……!」
片手で砂を掴むと、私は素早く立ち上がって駆け出した。そして男の剣の間合いにまで飛び出ると、大きく振りかぶって砂をぶつける。ひ弱な小娘が何かするとは思わなかったのだろう――彼が怯んだ隙に、私は背後のアンヘルの片腕を引っ張った。あとはお得意の逃げ足を発揮して、一目散に街道に向かって走り始める。
「ふ、フリア!? 君は何を……」
「うるさいうるさい! 黙って! こんな損でしかなさそうなこと、本当は私だってしたくないんだから!」
「はあ!?」
「アンヘルのことはよく分からないけど、同じイベリア人でしょう!? 国に帰るつもりなら、どんな汚いことでもやってみなよ、この馬鹿!」
滅茶苦茶な論理を口にしている自覚はあったが、紛れもない本心だ。
だって、死んだら元も子もないだろう――私はイベリアに帰る希望がある限り、どんな方法を使っても生き残ってやると堅く誓っているのだ。
「フリア……、」
背後でアンヘルの息を呑む気配がした。
私は彼を引っ張り、とにかく全速力で砂地を駆ける。街道まで辿りつけば人気はあるだろうし、男だって下手なことはできないだろう。そう考えたのだが、実際問題、物事はそう上手く運ばなくて――私はあっけなく窪地に足を取られると、アンヘル共々砂の中へと飛び込んでしまったのだった。
「うわああああっ!」
砂の中に顔面から突っ込んでしまい、口の中が砂塵でいっぱいになる。
慌てて顔を上げるとアンヘルも同様のようで、しょっぱい表情をした彼と目が合った。しかし追いかけてきたらしい男が視界に映り、私は思わず顔を引きつらせた。かくなる上は……そう思って私は窪地に散在する小石を拾おうと、砂の中に手を突っ込む。そして掴んだものを、よく確認もせず男に向かって投げ飛ばした。石だと思ったものは小ぶりのサソリだったらしく、茶褐色の生き物が男に飛来してゆく。
「おいおい、まったく往生際の悪い嬢ちゃんだな!」
しかしそれも悪足掻きでしかなかったらしく、男は剣の鍔でサソリを弾き飛ばしてしまった。その隙に私達は窪地から這い出したが、既に男は間近にまで迫っている。
どうしよう、絶体絶命だ。同じ手はもう通用しないだろうし、アンヘルも役に立ちそうにない。男の振りかぶる円月刀が太陽を反射するのを、私は呆然と視界の端に収めた――その瞬間、だった。
「っ……!」
乾いた発砲音と共に、風を切って唸る何かの音。
それが銃声だと気づくと同時に、男の表情が動揺に染まった。彼は弾道から外れるように横へ退いたが、視線は私たち――その背後に固定されたままだ。
砂を踏む規則正しい足音が、背後から徐々に近づいてくる。そして数瞬の膠着状態を割るように、甘やかな男性の声が響いた。
「それは我々の獲物ですよ、ハヤール」
振り向くと、荒涼とした大地には一人の男が立っていた。
帝国では珍しい、白皙の肌をした男だった。太陽光に長い金毛が薄ら煌き、その淡青色の瞳は酷薄に私達を見下ろしている。