03
アンヘルを追いかけて屋敷を出る最中、私は回廊に転がる使用人の死体を見つけ、思わず声にならない悲鳴を上げてしまった。対するアンヘルは平然としたもので、裏口に辿りつくまでに遭遇したどの死体も平然と素通りするばかりだ。私のような小娘にはあっさり騙されてしまうのに――障害となる人々をあっさり斬り捨ててしまえる程度には、彼の“目的”に対する執着は強いのだろうか。その差にどこかちぐはぐとしたものを感じつつも、まあその刃が自分に向かなければいいや、とか私は適当なことを考えるに留めた。
屋敷の外に出ると、冴えた風が頬に吹きつけた。空にはいまだ銀河が瞬いているものの、月は傾きもう数刻もすれば夜も明けるだろうという頃合だ。
「この街を出るのは夜が明けてからにしようと思う。夜盗も多いし、逆に目立ちかねない」
「ふうん。……それまで、どうするの?」
「そうだな……、」
屋敷から少し離れた場所に生えた棗椰子の木には、一頭の毛並みのいいアラブ馬の手綱がくくりつけられていた。その綱をほどきながら、思案するアンヘルが目を臥せる――しかし次の瞬間、彼は弾かれたように顔を上げた。
避暑地という性質上閑散としたイフレンの中でも、特にこのあたりは人家が少ない。アンヘルはその金色の双眸で、棗椰子の散在する荒野の一点を睨みつけていた。黒く柔らかそうな前髪が風になぶられ、ふわりと揺れる。
「……いや、やはり今のうちに出よう。フリア、君は馬の前に乗って」
「え? えっ?」
「急いで!」
なぜか焦り始めたアンヘルに急き立てられ、私は馬の胴体にしがみつく。
しかしろくな乗馬経験もない私は途惑うばかりで、どうしたら良いのかまったく分からない。するとふいに背中から回された腕に胴を抱えられ、視界が一気に上昇したかと思うと、私の体は鞍上へと押し上げられていた。休む暇なくアンヘルがその後ろに乗り、私の脇から腕を通して手綱を掴む。そうして、あっという間に馬は走り出してしまった。
「ど、どういうこと? アンヘル、何かあったの?」
どこまでも一直線に伸びてゆく地平線には、既に朝焼けの光が滲もうとしていた。馬の蹄は忙しなく荒野を蹴り、黄色い砂塵をあたりに舞い上げてゆく。
「視線を感じた。多分、あれは……」
アンヘルはそこで言葉を切り、手綱を引いて馬の鼻先を変えた。富豪の屋敷の立ち並ぶ区域を抜け、既に市場などが密集する市街地が見えてきていたが――彼は何を思ったのか、それらを迂回するように馬の進路を取ったのだ。薄暮に似た青い闇に包まれた街並みはあっという間に遠ざかり、視界の中から消えてゆく。
そしてフェスへと繋がる街道が見えてきた頃、どこか遠くから、馬を駆る小さな音が聞こえてきた。きっと仕事熱心な商人だろう、私は暢気にそう考える。
しかし徐々に馬の足音が近づいてきた頃、異変が起きた。空気を切る、何か押し殺されたような、奇妙な音。それが聞こえた途端、私たちを乗せた馬の嘶きが響き、その両足が宙を駆った。
「っ、やっぱりか……!」
苦々しいアンヘルの声が耳朶を打つが、私はそれに反応する余裕すらなかった。
馬の前脚はもがくように虚空を蹴り、その胴体が大きく傾く。重力に逆らえず、落ちることを悟った私はとっさに目を瞑った。予想にたがわぬ浮遊感を感じた時、ふと私の胴体を強い力が引っ張る――ここで終わりなのだろうか。愛するイベリアに帰れず落馬で死ぬなんて、不本意なことこの上ない……。
「フリア!」
――などと珍しく弱気にもなったのだが、私の命運はまだ尽きていなかったらしい。
一喝するような声に促され、私は砂にまみれた両目を開いた。目の前には同じく質の高そうな服を砂だらけにしたアンヘルがいて、彼は私の無事を確認すると、立ち上がって投げ出された己の剣を握った。
やわらかい砂地だったおかげか、命危ういどころか怪我ひとつない。宝石の包みの無事も確認したところで私は上体を起こし、きょろきょろと周囲の様子を伺った。
徐々に白み始めた空の明るみに照らされ、砂には点々と赤い血痕が残されていた。血の痕跡をたどると、少し離れた場所にあのアラブ馬がいる。足を撃たれたのだろうか、けれども銃声は聞こえなかったし――おぼろけに状況を把握し、私はアンヘルの背中へと視線を戻した。
「あんへ……、」
とりあえず現状に納得のいく説明をしてもらおうと、私は彼に呼びかけようとした。――けれども抜き身の剣を構えた彼の先に、誰か別の人間がいることに気がつく。
「おうおう、随分な歓迎だな。せっかくこの俺が直々に出向いてやったっていうのに」
アンヘルのものとは違う、低く艶のある男の声。
徐々に姿を見せ始めた太陽の光芒が荒野を走り、その男の足元を照らす。砂埃を舞い上げる一陣の風が、男のまとった黒い外套の裾を捲り上げた。――赤い裏地に、金の竜の刺繍。
「私は貴様などに用はない。疾く去れ」
「残念ながら俺はお前に用があるんでね。そのきれいなお顔に傷をつけたくなったら、さっさと降参しろよ? 俺たち銀獅子は、皇帝直属軍の中でも特に血の気が多いからよ、一度斬りかかったら歯止めが利かなくなっちまう」
そう言いながら、男は片手に携えた大振りの円月刀を天に掲げた。
イェニチェリというのも耳慣れない響きだが――どうやら男の格好から察するに、軍人であることは確かなようだった。漆黒の軍服をまとった男は、まるで黒豹を思わせるようなしなやかな体つきをしている。日によく焼けた褐色の肌に、短く切った黒髪。典型的な帝国人の面立ちをしているが、その銀色の瞳だけはどこか異質な雰囲気を感じさせる――とか冷静に分析してみたものの、私の内心は穏やかではなかった。まさか軍人に追われていただなんて、聞いてもない話だ。そういうことは事前に言ってほしいし、言ってくれたらついて来なかったのに。
「……わ、私は関係ないからね……」
震える声でそう言ってみるが、男には届いていないらしい。
しかし男の目的はアンヘルだけみたいだし、私が逃げたところで何の支障もないだろう。そう思って私は宝石を入れた包みの重みをしっかりと確認し、及び腰ながらもその場を後にしようとする。
「おっと、そっちの嬢ちゃんも下手に動くなよ。どういう関係か知らねえがな」
「どういう関係もなにも、何の関係もないんで……」
「ああ?」
ささやかな反駁を返してみるが、鋭い一瞥に私は口をつぐんだ。まるで蛇に睨まれた蛙のよう。――こうなると、この状況を打破してくれそうなアンヘルに賭けるしかない。
そう思って私はアンヘルを再び見やったが、彼はじっと押し黙って男を見ているようだった。軍人に追われるなんて、まったく彼は何をしでかしたのだろう。あるいは先程彼の言っていた、“黒いマリア”絡みの問題だろうか。
「で? おとなしく投降してくれれば、こっちとしても手間が省けるんだが。どうする?」
「……断る以外の選択肢が見つからないのだが」
「ハッ、そうくると思ったよ。一筋縄で行く相手の方がつまらねえってもんだ」
そう言い合いながら、二人は徐に剣を構えた。
昇りはじめた太陽が、アンヘルの黒い髪に光沢を走らせる。彼の剣を構える姿はとても様になっているのだが――私はどうしたらいいか分からず、砂地に一人へたり込むばかりだった。
というか、この隙に逃げられないだろうか。懲りもせずそう考え始めた矢先、激しい剣戟が始まった。