02
「お、お願い……! 助けてちょうだい! ね、同じ国生まれなんだもの、このみじめな奴隷を少しでも憐れんでくれるなら……助けてほしいの、お願いよ」
絨毯の上に膝を落とすと祈るように手を組み、私は上目遣いでその少年を見上げた。
潤んだ目線に少年がたじろぎ、その表情が明らかにうろたえる。私が膝を折ったことで背後の鏡面台に置かれたランプが、より明瞭に少年の顔を映し出していた。彫りの深い顔立ちは寸分の狂いもなく整い、狼狽するその姿はどこか控えめで気品を感じさせる。――その上品な所作を見ても、私のような奴隷とは一線を画しているようだった。
「いや、しかし、私は……。残念だが……騒ぎになる前に逃げろ、としか言えない」
「そんな! 逃げ出したところで、ろくな目には遭わないわ。今みたいにまた奴隷にされてしまうのが関の山よ。ね、事情はよくわからないけど、この屋敷に忍び込んできたからには何か目的があるんでしょう? 私、きっと役に立つわ」
目的、その言葉にハッと弾かれたように少年は顔を上げた。
彼は私の脇を素通りすると、焦った面持ちで物置の骨董品を漁り始めた。暫くごそごそと荒い手つきで周辺の物を確かめていたが、やがて横に合った鏡台に目を留め、そこに置かれたあの聖母像に気が付く。
「あった……! “漆黒のマリア”……!」
私の存在などとうに忘れたように、少年は歓喜の声と共にその黒い聖母像を持ち上げた。
そして空洞になった内部を覗き込むと、何かを探るように指を差し込む。しばらく彼は期待に満ちた顔で中身を探っていたが、やがてその揚々とした空気はしぼみ始め、明らかな落胆が表情に表れ始めた。
「無い……? おかしい、確かにあるはずなのに……」
「何を探しているの?」
推察するに、どうやら少年は聖母像の中に隠された何かを探しているらしい。ようやく私の存在を思い出したらしい少年は、そろそろと顔を上げると、逡巡するように唇を噛んだ。
「ここに大切なものが収められているはずなんだ。とても、大切なもの。……遺失技術の情報を収めた、マイクロチップが」
「……遺失技術? まいくろちっぷ?」
「すまない、君には分からない話だったか」
「遺失技術くらいなら、聞きかじったことはある……けど、」
遺失技術――私のような田舎者でも、何度か聞いたことがある。何百年も昔に起きた戦争によって失われたかつての大文明。遺失文明とも言われる当時の技術を総称し、遺失技術と呼んでいるのだ。一部は現代にも蘇っているらしいが、残念ながら私の意識する限りではその恩恵を受けたことはない。
しかしまいくろちっぷとは何だろう。少年が言うには遺失技術の情報とやらが入っているらしいけれども、皆目見当がつかない――そこまで考えて、ふっと私の頭に先ほどの出来事が蘇った。あの黒い聖母像の中から落ちてきて、私が踏み潰してしまったもの。
「……ううむ……」
まさか、あれが――。
嫌な予感に顔を曇らせた私を不審に思ったのか、少年が首を傾げる。育ちだけでなく人も良いのか、どうやら私を疑うつもりはないらしい。――あんな血に濡れた剣を引っさげていたわりには、随分と……純朴そうだ。彼の澄んだ瞳を見返しているうちに、私は心の中でむくむくと悪意が首をもたげるのを感じた。
「まいくろちっぷ? だっけ。その行方なら、私、知っているかもしれないわ」
「本当か!?」
「私を買った人がそんな話をしていたの。それで、今日の夕方にお屋敷に来た人がそれを持って行ったみたい。私、その人の顔なら覚えているわ。記憶力は良い方なの」
すらすらと口から飛び出てくる出鱈目に、少年は目を見開いた。まさに藁にもすがりつきたい心境なのだろう。そんな少年の姿に罪悪感を覚えないわけではなかったが、ひとまず私の目論見はうまく行きそうだ。
私の目的はただひとつ、イベリアに帰ること。そのためにはまず、船の出る北方の街タンジールまで行く必要がある。その道中にうまくこの少年を利用してやろうというのが、私の魂胆だった。腕も利きそうだし金もありそう、おまけに人を疑うことを知らない。――かわいそうだが、骨の髄まで利用するしかない。
「ね、だから私を連れて行って。きっと役に立つし、損はさせないと思う。あ、お礼はいらないのよ。どうせ金目の物はここから失敬していくつもりだったし」
「……いや、しかし……私は、無関係の人間を巻き込むつもりは……」
「無関係じゃないわ。同じイベリア人でしょう? 豊かな大地と海、そして偉大なる王の見守るイベリアの地。共に日の沈まぬ国に生まれた人間じゃない」
少年の黄金色の瞳を見つめ、私はにっと唇に孤を描いた。
異国の地でささやかれる同郷の響き、そして愛国心の強いイベリア人の心を刺激する言葉。――それは少なからず、少年の心を掴んだようだった。
「……だったら、協力を頼んでかまわないだろうか。私にはどうしても“漆黒のマリア”が必要なんだ。あれを携えず本国に帰ることはできない」
「私で良ければ喜んで協力するわ。よろしくね。……私はフリア。ええと、あなたは……」
「アンヘル、だ」
手を差し出した私を見て、少年――アンヘルも黒い手袋に覆われた腕を伸ばした。握手を交わし、よろしくね、と私は念を押すように微笑む。
「マイクロチップが持ち出されたというのなら、その行き先にはいくつか心当たりがある。軍か、大手の武器商か……そのどちらかだろうな。少なくとも、イフランにはもうないだろう」
「……軍? 武器商? え?」
アンヘルの口から飛び出した不穏な単語に、私は目を瞬いた。しかしそんな私の様子など露知らず、アンヘルは難しげな顔つきで考えこんでしまう。
軽い気持ちでついた嘘だったが――なにやら、事態はそう生易しいものではないのだろうか。私は一瞬そんな予感にとらわれたが、すぐにその考えを振り払う。アンヘルが探しているものが何だとしても、私には関係がない。危ない目に遭いそうなら、その前にとっとと逃げればいいだけの話なのだから。
思案するアンヘルをよそに、私は物置を再び物色することにした。奥にあった木箱を開くと、中には溢れんばかりの衣装が詰まっている。――どれもこれもあの男が着るには小さすぎるものばかりだったから、きっと奴隷に着せて楽しむつもりだったのだろう。その中から生成りの長衣と革靴を発掘すると、いそいそと薄手の夜着の上に着込む。ついでに先ほどの宝石を布で包んで袋にすると、よいしょとそれを背負った。
「……そういえば、君は何でこんなところにいたんだ?」
ふと投げかけられた言葉に、私は鷹揚な動作で振り返った。
「変態親父が頓死したから……これを機に逃げようと思って、服とか探してたの」
「……頓死?」
「あ、私は殺してないからね。それよりもアンヘル、これからどうするの? あんまりここに長居しても、良いことはないように思えるけど……」
その言葉にアンヘルは頷いた。私は嘘が暴かれたのかと一瞬不安になったが、どうやらそういうわけでもないらしい。
「ひとまずはフェスに向かおうと思う。フェスはここから一番近い大規模都市だ。情報を収集するにしても便利だろう」
「ふうん。まあ、いいけど」
フェスはイフレンの北方に位置する都市のはずだから、私も特に反対しない。
アンヘルは黒い聖母像を名残惜しげに見やってから、行こう、と私に声をかけた。ばさりと黒い外套の裾を翻し、月明かりの中へと足を踏み出す。
やがて私はこの日ついた嘘を心から後悔することになるのだが――今この時は、そのことを知るよしもない。ごく軽い気持ちで、私はアンヘルの背を追いかけるだけだった。