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01

 悲しみはいくらでも両目を抉り、貴方を盲目にする。だから常に鉄のような心でありなさい――幼い頃に亡くなった母は、ことあるごとにそう私に言い聞かせた。

 だから私は故郷が焼き払われ、珍しい容姿をしているからという理由で敵国に売られても、自分の未来を悲観するようなことはなかった。故郷であるイベリア王国に帰るという夢がある限り、私はどんな状況にも屈しない心の強さを持つと決めていた。

 静謐な闇を掻き乱す、いくつものランプの明かり。私は柔らかな絨毯の上にへたり込みながら、目の前に広がる光景を眺め続けていた。橙色の光に照らされ、深い闇の中に浮かび上がる天蓋付きの寝台、その上に仰臥する裸体の男。男は巨体をぐったりと弛緩させ、だらしなく手足を投げ出し、先程から微動だにもせず横たわっていた。


「どうしよう……、」


 乾燥にひび割れた唇から、掠れた声がこぼれ落ちる。

 どきどきと強い拍動を打つ胸を押さえつけ、数秒、私は思考を走らせた。目の前の男は、先程脈を確かめたのが間違っていない限り、ほぼ確実に絶命している。――断じて、私が殺したわけではない。これは偶然の事故、そう事故の結果に過ぎないのだ。十四歳の少女相手に無体を働こうとした男が、突然胸を押さえて苦しみ出した。私はその光景を見守り、男の絶命を見届けたに過ぎない。

 稀有な銀髪を面白がられ、私はこの男に“花嫁”として購入された。花嫁とは言ってもほぼ奴隷のようなもので、避暑地で夏を過ごす際の相手に過ぎない。このガザーラ・ハディージャ帝国連邦では、このような違法行為が公然と行われている。とくにイベリア半島にほど近いこの地では、帝国との間で長らく続く戦で孤児になったイベリア王国の娘が好んで輸入されていた。――そう、紛れもなく私の話だ。

 最初からこの男からは逃げ出すつもりだったものの、確実に今の状況は想定外だ。使用人なり何なりが来る前に逃げ出さなければ、あらぬ冤罪をかけられてしまう。私は薄手の夜着の襟を寄せると、意を決してその場を立ち上がった。


「逃げるのよ、フリア。今が逃げる絶好の機会だもの、逃げなくちゃ、帰るために」


 長らく耳にしていない故郷の言葉で、自分を奮起させる。

 ――私の目的は最初からただひとつ、故郷に帰る、それだけだ。

 そのためなら何だって利用してやる、そう私は己の運命が尽きた時に誓ったはずだ。だから金目の物なりなんなり失敬して、とっととずらかるのがこの場合の正解だろう。壁に立てかけられた円筒型のランプを右手に、そして男の脱ぎ捨てられた長衣から鍵の束をもらうと、私はそそくさと寝室を後にした。

 外に出ると、冴えた夜風が体中に吹きつけた。砂漠地帯を大半の領土に収める帝国ではあるが、このイフレンは高地にあるため比較的気温が低い。見上げると紺青の空には猫の爪のような、蜜色の月のかけら。中庭に面した廊下を忍び足で歩き、私は周囲の様子を窺った。到着したばかりの昼間にはもっと人気があったような気がするが、住み込みの使用人はいないのか――ひどく、静かだ。

 好機に変わりはないので、私は目についた扉に鍵束の鍵を順番に試した。ほどなくして鍵がかち合い、解錠の小気味よい音がひびく。開いた隙間に身を滑り込ませ、私は持っていたランプで部屋を照らした。


「物置……? 当たり?」


 適当に入った部屋ではあったが、ペルシア絨毯の上にはひしめき合うように高級そうな調度品が並べられている。私は後ろ手で扉を閉めると、さらに物色しようと内部へと足を進めた。

 あの男は蒐集癖でもあったのか、古今東西のあらゆる骨董品が揃えられている。私は隅の鏡台に目を留めると、なんとなしにその引き出しを開いてみた。するとさすが富豪というべきか、中には溢れ出しそうな数の宝石が小箱に収められている。路銀がてらに失敬させてもらうことにして、私は何か袋になりそうな布は無いかとあたりを見回した。

 そこでふと、私は奇妙なものに目線を縫い止められた。それは鏡台の隣にある螺鈿細工の飾り棚に置かれた――小さな、木彫りの像だった。ランプを掲げて見ると、両目の空洞に嵌めこまれた赤い宝石がきらきらと輝く。

 鏡台にランプを置くと、吸い寄せられるように私はそれを手に取った。思ったほどの重みはなく、片手で易々と持ち上げられてしまう。像は長衣をまとった女の姿をかたどり、荒い削りの中にも柔和な笑みを浮かべていた。――聖母像だ。イベリアの中でも山深い田舎にあった私の故郷では、細々と遺失宗教の“聖母”を崇める信仰が残っていたから、私はその像の正体を知っていた。


「こんなものが、どうしてこんなところに……。大した価値もなさそうなのに」


 真っ黒に塗られ、瞳だけが煌々と赤く輝く像。私は首を捻り、両手でその像を頭上に掲げた――その瞬間、だった。中身が空洞になっていた聖母像から、何かが落ちてくる。

 それはランプの明かりを乱反射し、ちかりと光って床に落ちた。宝石か何かの類だろうか。私はそれを拾おうと前屈みになったところで、裸足でそれを踏み潰してしまう。指先に堅い破片が食い込む感覚にとっさに足を上げれば、それは既に絨毯の上で粉々に砕けてしまっていた。

 まあ金目のものでは無さそうだし、踏み潰したところでかまわないだろう。私は聖母像への興味を完全に失うと、鏡台にある宝石の物色を再開した。そこらにあった肘掛椅子の掛け布をはぎ取ると、宝飾品をまとめてくるむ。そして今度は服を探そうとしたところで――私は喧しく開かれた扉の音に、びくりと肩を震わせた。


「――そこにいるのは誰だ」


 しまった、余計なことに時間を割きすぎたのかもしれない――私は胸にいっぱいに広がる苦い気持ちを味わいながら、そろそろと背後を振り返った。まるで生きた心地がしない。

 戸口の立った人物の影を、ランプの明かりが長く引き伸ばしていた。その影を辿るように目線を前に向ければ、扉の前に立つ男が視界に入る。闇が深いためにはっきりとした容貌はわからないが、年は若そうだ。


「誰だ、と聞いている。口が利けぬ訳でもなかろう」

「わ、私は……」


 私は男の持つ剣に目を留め、背筋をぞっと冷たいものが這い上がるのを感じた。

 抜き身の剣は赤く濡れている。――どう考えても、この屋敷の使用人ではないだろう。屋敷のあの恐ろしい静けさを鑑みてみるに、もしかしたら夜盗か何かなのかもしれない。


「私、は、奴隷よ。ここには、今日売られて来たばかりなの。金目のものなんて何も持ってないし、だから……」

「……奴隷?」


 両手を上げた私に対し、男は眉をひそめた。剣を鞘に収めると、徐に私の傍まで歩み寄ってくる。

 ――明かりの近くで見ると、男は青年というより、少年といった方がしっくりくるような年頃だった。血色のよい白い肌、黒い癖毛は艶々として首のあたりで括られ、金色の瞳はまっすぐに私を見据えている。


「出身はどこだ」

「い、イベリアよ。イベリア王国の、トレードの近くの村」

「……イベリアだと? ……同胞か? しかし、その容姿は」

「混血なの。私の母はれっきとしたイベリア人よ。ね?」


 褐色の肌を不審に思ったらしい少年に、私はあえて故郷の言葉で答えた。その響きに少年は目を見開き、難しそうな顔で頷く。――事情は呑み込めないが、どうやらこの少年もイベリア人らしい。

 その瞳に一瞬混じった同情と憐憫を、私は見逃すことはなかった。少年の身なりの良さを見ても、同じイベリア人であっても身分は段違いなのかもしれない。少年はどうやら奴隷にまで落とされた同胞を憐れに思ったようだし、これを利用しない手はない――そう、私は思ってしまったのだ。



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