執事と危機
「四九七……、四九八……、四九九……、五〇〇!!!」
そう言い終えたと同時に、勇人はドタッと床に倒れ込み、そのままの状態で荒い息を整える。
額からは無数の汗が流れ落ちていっている。指に血を行き渡せようと、心臓がはやがねを打つように脈打ち、指先が痺れ熱を帯びているのが何となく感じられた。
「指立て五〇〇回完了…………。何とか感覚が戻ってきたな……」
汗が滲む手と痺れる指を確かめるように握ったり開いたりながら勇人が呟いた。
桐畑兄妹に拾われてから三日が経った。
まだ身体に痛みが残るもの、動けない程では無くなり、多少の事なら難なくこなせるようにまで回復した。あんなに激しい攻撃を喰らったのに、三日でここまで回復したことに少し疑問に思ったが、気にしたらきりがないと割り切ることにした。
とにかく、一刻も早くココを出るために多少の無理は承知でリハビリを続けているのだ。今もリハビリを兼ねて、ここ三日間で衰えた身体を鍛え直すためにトレーニングをしている。
その時、部屋にドアをノックする音が響いた。
「勇人くん~? 入るよ~」
そう言いながら、ドアを開け、手に何枚かのタオルを持った瑠璃が入ってきた。
「調子はどう……、ってまたトレーニングしてたの? あんまり無理しちゃ駄目だって言ってるのに……」
「いやぁ、自分でも分かっているつもりなんですけど……。何か動いてないと落ち着かないって言うか……」
苦笑いで応える勇人を困ったように見つめる瑠璃。
完全に勇人のことを疑っている目であったから、勇人は口笛を吹きながら明後日の方向を見る。しばらく勇人を見つめていた瑠璃は、不意に小さく溜め息を溢した。
「ま、仕方がないか……、んじゃハイこれ!」
そう言いながら、手に持ってたタオルを勇人に何枚か押し付けてきた。
「な、何ですかこれ?」
「そんな汗だくじゃ風邪引いちゃうでしょ? 今お風呂沸いたから先に入っちゃって」
勇人が何か言う前に、瑠璃は『早く早く~!』と急かしたので仕方がなく従うことにした。
「あ、あと今日の夕御飯はちょっと遅い七時だからね? それまでには出てくること! 分かった?」
お姉さんぶって(実際年上なのだが)勇人に指を突きつけながら言い聞かせてくる瑠璃の姿に思わず笑みを溢した。
「何? そんなに私がお姉さんぶるのが変だって言いたいの?」
「そんなわけありませんよ。んじゃ、遅くなるといけないんでさっさと入ってきま~す」
そう返しながら勇人がドアに手をかけた時、おもむろに瑠璃が問いかけてきた。
「何で路地裏に倒れてたの?」
「虎に襲われました」
「…………、やっぱそ……」
「それでは」
瑠璃が何か言う前に勇人はニコッ、と笑いスルリと部屋を出ていった。
「虎に襲われました、か……」
勇人が出ていった扉を見つめながら瑠璃は小さく呟いた。
勇人が来てからこの三日間。
何度も同じ問いをしているが、返ってくるのは同じ答えしか返ってこない。
(嘘じゃ……、ないよね…?)
十分あり得る話だが、どうも切り出すタイミングが無い。むしろ勇人がそのタイミングを潰しているように見える、いやそうとしか見えない。
しかし、逆に勇人の話が本当に事実だったり、はたまた勇人の頭がおかしくなって記憶が混乱していた場合は……。
どちらにしても、確信が無い限り聞こうとしても聞けないのだ。
「こんな事……、考えるの失礼だよね……?」
そう言うと、瑠璃は小さな溜め息を着き部屋を出ていった。しかし、部屋を出ていく瑠璃の顔は、何処か嬉しそうであった。
◇◇◇
「よう勇人、怪我の具合はどうだ?」
瑠璃の問いかけから逃げる様に階段を下りてきた勇人に、群青が声を掛けた。
「まぁ、ボチボチですね。群青さんのほうはどうですか?」
「さっぱりだ……。何処も彼処も新入社員に異常なほどの期待とプレッシャーを押し付けてきやがる。先ず第一に即戦力が必要なのは分かるんだけど……、もうちょっと新人のこと考えて欲しいわ……」
群青は肩を落とし、深いため息を着いた。
群青は二ヶ月ほど前までは小さな町工場で働いていた。
家の関係で高校に行けずに中学校卒業と同時に働きに出たのだが、今時中学生を雇う会社などほとんど無い。何十社と周り必死に頼み込んでようやく働かせてもらったのがその町工場だったとか。
当時十五歳の群青は、当時十四歳の瑠璃を養っていくために人の何倍も必死に働いた。
そして、何とか生活が安定し出した矢先に何の理由もなく辞めてしまったのだという。
「そう言えば、なんで辞めちゃったんですか?」
「ん? いや……、まぁあれだよ」
そういうと群青は黙り込んでしまった。
「……ま、それは聞かないってことで」
「…………そうですよね、誰でも話したくないこと位ありますよね?」
勇人の言葉に、群青は何故かジト目で満面の笑みを浮かべている勇人を見つめる。
「…………、つまり路地裏に倒れていたことはもう聞くなと?」
「誰もそんなこと言ってませんよ?」
「顔にデカデカと書いてあるがなぁ……?」
顔でものを言うとはまさにこの事だろう。
しばらく勇人を見つめていた群青であったが、どうでもよくなったのか、「じゃあな」、と勇人の肩をポン、と叩くとリビングのドアに手を掛けそのまま入ってしまった。
勇人はしばらく群青が消えていったドアを見つめたが、すぐに踵を返しお風呂場へと向かった。
◇◇◇
脱衣所に着いた勇人はすぐに衣類を脱いで浴槽に入った。もちろん、脱いだ衣類はきちんと畳んでだ。
浴室に入ると、先ず湯船から立ち上るあったかい蒸気が歓迎してくれた。
条kを存分に堪能した勇人は、シャワーの蛇口を捻り水を出す。出てくる水がお湯に変わるのを待っているが一向に変わる気配がない。
(古いから仕方がないか…………)
桐畑家の浴槽の蛇口は建設当初から変わってないらしく、シャワーがお湯に変わるのに大体一,二分はかかるのだ。
ちょっと前まで、案乃条家と言う大富豪の大浴場を利用していた勇人にとって、その水がお湯に変わるまで待つという時間がもどかしく感じる様になってしまっていた。慣れって怖い。
そんなことを思っているうちに水が温かくなってきたので、身体に向ける。少し熱めのお湯であったがジンワリと温かさが身体を包みこむ。
そのまま手早く身体を洗い流し、浴槽へと進み、足から順に湯船に肩まで浸かった。
湯船の温かさに思わずほっ、と一息着いてから、辺りを見回してみる。
水垢でちょっと汚れたタイル張りの壁に、勇人の頭から頭一つ分ぐらい上のシャワーのヘッドがある。浴槽はステンレス製で、照明の光が照り返す綺麗に磨かれている。
桐畑家の浴槽は古いアパートらしくこじんまりとしていて、一ヶ月ほど案乃条家のお風呂に入っていた勇人にとってちょっと窮屈に思う。しかし、元庶民現執事の勇人は少し懐かしく思えたりもしたのは事実だ。
しばらく懐かしの我が家を思い浮かべながら浸かっていると、ふと眠気が襲ってきた。湯船の温かさと、先程のトレーニングの疲れがどっ、と瞼を重くする。
虚ろな目で時間を確認すると、十六時二十七分と表示している。
『今日の夕御飯はちょっと遅い7時だからね』―――。
先程の瑠璃の言葉がポーッと頭に浮かんだ。
(三十分ぐらい……、いいよね…?)
そう思いながら、勇人はゆっくりと目を閉じた。
意識は直ぐに微睡んで、やがて暗くなった。
ハプニングの定番スポットである風呂
何が起こるんでしょう?(笑)