執事とショック
「お、お願いします……」
勇人は震える手でカッターシャツを差し出した。
唐松は無言でそれを受け取りあらゆる方向から舐める様に見回し始める。ポケットの中、織り込まれた布と布の間、襟元を鋭い目つきで順に見ていく。
勇人はその姿を静かに見つめているが、心臓が狂ったように暴れまわっている。手渡す前に「失格」と言われなかったことにほんの少しだがホッとしているのだが、顔は緊張で引き攣り、固く握りしめた拳からは汗が滴り落ちている。身体から流れた汗が、水溜りみたいになっているのをチラリと見つけ、更に汗が噴き出してきた。
(おおおおおおお、落ち着け!! 俺ぇ!!)
心の中でそう念じるが、かえって緊張が身体を蝕んでいく。手足がガクガクと震え、体中の力を吸い取られていく様な感じだ。
唐松は相変わらずカッターシャツを舐め回すように見ている。袖口、襟、襟の裏、ポケットの中など、念入りに調べていく。
(もう何時間経ったのだろうか……?)
冷や汗を拭いながら勇人は心の中で自分に問いかける。実際には一分ほどのことだろうが、勇人には二時間ぐらいのように思えた。
はずだった。
「合格」
唐松はカッターシャツを受け取るとほぼ同時にそう告げた。
「ですよねぇ~~、失格ですよね~~。分かってましたはいぃ~」
勇人は頭を下げながらズコズコと出口の方へと歩きだしてしまう。その姿に周りのSPたちが慌てて勇人を引き留める。
「ち、ちょっと君!!」
「へ? 何ですか? 僕、失格でしょ?」
「君の耳は飾りかね?」
唐松はそう言いながら勇人にシャツを突きつけた。
「私は『合格』っと言ったのだよ」
「へ~、合格ですか~……ですよね~。ハハハッ、ハハ……は?」
点になった目を唐松に向けながら、勇人は問いかけた。
「合格……ですか!?」
勇人の言葉に、唐松はゆっくりと頷いた。
「ええ~~~~~~!!!!!!」
『おお~~~!!!』
勇人の絶叫と会場のどよめきが折り重なるように会場中に響き渡った。
『ここで!! 十四人目の通過者が出ました!! エントリナンバー四番、北方勇人選手です!!』
実況がマイクを握りつぶすかのように強く握りしめ、狂ったように叫んだ。それに煽られ、会場中は一気にヒートアップ、観客が総立ちで勇人に歓声を送っている。
当の勇人はまだ状況が飲み込めず、虚空を見つめ口をパクパクしていた。
「……どうしたのかな?」
虚空を見つめている勇人に、唐松が動じないトーンで話しかけてくる。
「えっ!! いや……その……。な、なんかあっさり決まったなぁ~~、って思いまして……」
唐松の問いに、少年は顔を硬直させたまま答える。その時、唐松の眼鏡がきらりと光った。
「私の判断に不満かね?」
「い、いえいえ滅相もございませんのことよ!!!」
「頭大丈夫かね?」
「はい!! えいじょうふれふぅ~……」
そう言葉を溢しながら、勇人はその場にぶっ倒れた。
大急ぎで周りのSPが駆け寄り、無線で担架を手配するよう叫ぶ。会場は一瞬ざわめきが止んだが、すぐに勇人を心配するざわめきに変わる。
唐松はぶっ倒れた勇人から目を離し客席に目を向けると、こちらに向かって一目散に走ってくる二人の少女の姿が見えた。二人の少女は係りの者が止めるのも構わず、フェンスを飛び降りて勇人へと駆け寄った。
「勇人ぉ!!!」
「勇人くん!!」
由利と晴子が必死に呼びかけるが、勇人は沈黙を保ったままだった。
「どうしたの!? 勇人!! ゆう――」
「落ち着いてください」
唐松が二人を強引に勇人から離れさせSPたちに合図を送る。するとSPたちは持ってきた担架に素早く勇人を乗せ、選手控え室へと運んで行った。
「勇人ぉ!! 勇人ぉ!!!」
「落ち着いてください。恐らく軽いショックでしょう」
「で、でも……」
「今あなたたちにできることはなんですか? ここで彼の名前を呼び続けることですか? 今貴女たちが行ったところで何の役に立ちますか?」
唐松が問いかけると、由利と晴子は同時に唇を噛み締め俯いた。
「違うでしょう?」
唐松が優しく問いかけるが、由利と晴子は俯いたまま激しく首を横に振る。『帰りたくない』『あの少年の側に居る』、と無言で語りかけてきた。
「貴女の執事は一回戦を突破したんです。それに対する賞賛の言葉を贈るのならまだしも、目を覚ましたら目の前であなたたちが泣き崩れていたら、彼はどう思います? きっと『自分が二人を泣かせてしまった』と思い、今後の競技に支障がきす恐れがあります。せっかく突破したのに、次の競技でそれを台無しにしてもいいのなら、私はあなたたちを引き留めません」
唐松はそう言いながら横にはけて、控室への道を作る。その光景に、二人は黙ったまま肩を震わせた。
今すぐにでも走っていきたい。でも今自分たちが走っていけば、勇人は勝ち進むことが難しくなる。なら、残された道は一つだ。
二人は無言ままトボトボと客席へと帰っていった。唇を噛み締め、体中を震わせながら。唐松はその姿を見つめて、控え室の方へと視線を向ける。
」
「貴方は幸せ者ですね……」
唐松は小さくそう呟くと、審査員席へと小走りに行ってしまった。