執事と本音
「由利、少し老けました?」
「えっ、やっぱりそう見える?」
北条家のとあるVIPルームで髪を梳かしながら心配そうに答える晴子に由利は力ない笑顔で答える。
「髪の毛の色で分からないかも知れませんが、ほんの少し白髪が混じってますよ?」
「そんなわけ無いじゃん。この歳で白髪なんて、私鈍だけおばあちゃんなのよ(笑)」
冗談交じりに言い返す由利の手には、何故か湯飲みが握られている。
「湯飲み持ちながら言わないでくださいよ」
「やっぱ緑茶はいいのぉ~。身体に染み渡るぅ~」
「貴女何歳ですか?」
湯呑を握りながらおばあちゃんみたいなことをぼやく由利に、晴子は思わずため息を漏らした。
先ほどのショックで拒絶反応でも起こしたのか、由利の精神に異常が起きている。今は何事もなかったかのようにココに居るのだが、ココに来る途中何もない段差で転んだり、階段を上がるスピードが極端に遅くなったりとまるで七十歳のおばあちゃんのような動きをしていたのを晴子は見ていた。
今も湯のみ片手にあれやこれやと独り言を呟いては笑ったりしている。ほんの数時間前、孝章のデリカシーの欠片の無い発言によって湧き上がった衝動と必死に戦っていた子とは思えない。
(ホント、ココは苦手ですね……)
そんな由利の姿を見て、毎回晴子は思うのであった。
「あ、そう言えばハルにお願いしたいことがあったわ」
「ん? 何かしら?」
飲み干した湯呑みを傍らの机に置いた由利がそんなことを言って晴子を見上げる。その姿に、晴子はとかす手を止めずに聞き返した。
「勇人に、この大会で優勝したら何でも一つだけお願いを叶えてあげる、って伝えて欲しいの」
由利の言葉に、彼女の髪をとかしていた晴子の手が止まる。そして、見上げてくる由利の顔をじっと見つめる。
「……何で急にそんなことを?」
「だって勇人、この大会に強制参加させられたのよ? 何も得るものがない大会に頑張ると思う? だから、彼に頑張れるようなきっかけを与えるの」
涼しげな顔でそう言った由利は湯呑みにお茶を注いでまた飲み始める。その姿を見つめていた晴子は、再び髪をとかす手を動かし始めた。
「……勇人くんが望みそうなものって、何か想像ついてます?」
「…………一応ね」
晴子の問いに、由利は歯切れの悪い返事をする。その時の彼女の顔がどのようであったかは晴子には分からない。
「でも、必ず伝えて頂戴ね?」
「…………分かりました」
由利の念を押した言葉に、晴子は敬語になっていることも忘れてそう返事を返した。
◇◇◇
ガチャガチャと食器が触れ合う音、水が勢いよく流れる音が響き渡る北条家の厨房。勇人は北条家の使用人たちと共に、夕食の後片付けをしていた。
先ほどの孝章の言動で、勇人はドッと疲れた。由利が覚醒して孝章に襲い掛かりでもしたら、大変なことになっていただろう。あの空気を素早く察知してそれとない感じで由利を連れ出してくれた晴子には後でお礼を言っておかなければならない。
若干重いまぶたを開けながら勇人はうつらうつらとスポンジをこすり付ける。そんな勇人のそばを北条家の使用人たちは先ほどの緊張感がまるで見えないほどスムーズに動いている。孝章の言動で場の空気が凍りつくことなんて、日常茶飯事だと言いたげにテキパキと仕事をこなしていく。そんな姿をボケっと眺めていると、不意に声をかけられた。
「北方勇人。後は私がしますからそこで座っていてください!!」
「ふぇ? ……うわわ!?」
そう声が掛けられたと同時に握っていたはずのスポンジが消えたかと思うと、今度は無理やり身体を押され倒れこむように側にあった椅子に座らされる。座らされたとき、若干尾骶骨を打った。結構痛い。
少し涙ぐみながら前を見ると、真張が勇人を気味悪いものでも見るような目で見据えていた。
「な、なにす……」
「それはこっちのセリフです!! 他の人はさっさと終わっているのに……。なに空中にスポンジこすり付けているんですか!! そんなので終わるわけないでしょ!!!」
「へぇ?」
真張の叫びに勇人は先ほどまで自分がしていた行動を一から思い出してみた。
確かにスポンジで擦ってはいた。しかし、片方の手はどうしていたかいまいち思い出せない。
「握ってませんですか? お皿?」
「握ってませんでしたよ!! 四枚目ぐらいから空中にスポンジこすり付けてましたよ!! どんなスゴイ能力があるからって他の使用人さんが気味悪がることはやめてください!!」
「能力っていうか、ただ眠かっただけないだけど……」
勇人の言葉に真張はあきらめた様にため息を溢して皿洗いを始める。
「あ! や、やりますよ!!」
「見た感じ眠そうでしたでしょ? このまま寝惚けて皿とか割られても困りますからそこで休んでてください」
手を伸ばしてきた勇人を泡がついてない方の手で押さえて座らせ、真張はため息を漏らしながらそう言うと黙々と皿洗いを再開した。その姿を見て安心したのか、他の使用人たちはそれ添えに挨拶を言って厨房を後にしていった。
いつしか、厨房は椅子に座ってウトウトする勇人と黙々と皿洗いをする真張だけとなった。
ほんの数分、沈黙が厨房を支配した。
「あ、あの……」
沈黙を破ったのは、休んだおかげで少し眠気が取れた勇人であった。
「何です?」
真張は皿をすべて洗い終え、布巾で手を拭いている時だった。
「真張さんって……孝章様のことが好きなんですか?」
「ええ、そうですよ」
予想に反した答えが返ってきたので勇人は面を食らった様な顔で真張を見つめる。
「どうしてんですか?」
「……いや、あまりにもストレートな答えが来たもんですから……。ちょっと驚いてしまって……」
「別に私が誰を好きになろうが関係ないと思いますけど?」
「いや、でも……。主と使用人じゃ……ッぷ!?」
そう言いかけた勇人の言葉を真張が布巾を勇人の顔に投げつけて黙らせる。
「立場上結婚できないとでも? そんなのは当たり前じゃないですか」
「えっ?」
真張の言葉に勇人は握り締めていた布巾を思わず取り落した。布巾は音をたてぬまま、ヒラヒラと舞い床に落ちた。
「私は孝章様が大好きですよ? 結婚できれば死んでもいいとも思ってます。でも、今の身分じゃそんなことは夢のまた夢。そんなことは厚かましいにもほどあることは重々分かってます。もちろん、もっと親密になりたいって願いは在りますけどね? でも……」
真張はそこで言葉を噤み顔を背けた。気のせいだろうか、背けた際に見えた真張の目が、真っ赤に純血していたのは……?
「でも……今の関係でも、私は十分満足なんです。あの人のお傍で、あの人のために自分の身を捧げる……。こんなすばらしいことこの上ないですよ。たとえあの人の眼中にいなくても、あの人が他の人を好きになっても……。私は……孝章様が幸せなら……それでい……んで……」
そこで真張の言葉が途切れた。代わりにすすり泣く声が微かに勇人の鼓膜を揺らした。真張は顔を背けているのだが、その体が小刻みに震え、涙をふくために持っていかれる袖に残る黒い涙の痕。勇人は、ただ呆然と立っているしかなかった。
今の彼女にどんな言葉を掛ければよいのだろうか……。どう慰めればいいのだろうか……。
必死に考えるのだが、これといった言葉が見つからず、勇人は黙っているしかなかった。
「……こんな話を貴方なんかにしても意味がありませんでしたね。すいません、変な話聞かせてしまって……」
そう真張は言うとそそくさと部屋を出て行こうとする。その目真っ赤に腫れ、頬には涙の痕が見える。
「……あ、あの!」
真張がドアに手を掛けた時、勇人が叫んだ。真張が無言で勇人を見据える。
「あの……俺……じゃなくて! じ、自分が言うのもんなんですけど……。別に孝章さんにその気持ちを伝えてもいいんじゃないんですか?」
勇人の言葉に無表情を貫いていた真張の目が一瞬だけ大きく見開かれた。
「人が人を好きになるって事はその人がどんなに頑張っても帰られることが出来ない事実ですし、『好きな人の傍に居たい』ってのも人間からしたら別に普通だと思いますよ? でも主従関係とか……立場とかで簡単に諦めるものじゃないと思います。もし僕に好きな人が出来たら、例え勝算が無くても、周りがあきらめろと言ってもガンガンアプローチすると思います。もちろん振られたら諦めますけど、その確証が持てないのに諦めてしまうのは……ものすごく勿体ない気がします。少しでも、一%でも可能性があるなら、それに賭けてみるべきだと思いますよ?」
勇人は真っ直ぐ真張を見つめて言った。真張は無言で勇人の話を聞いていた。時折その瞳から大粒の涙が零れた。
しかし、真張はぷぃっとそっぽを向いてドアノブに手を伸ばした。
「それでも……無理なんです。私なんかが……孝章様と……」
そう小声で呟くと、彼女は逃げる様に部屋から出て行ってしまった。
勇人は、真張が出て行った扉を静かに見つめ、おもむろに腕を頭の後ろで組みながら小さく呟いた。
「……少なくとも、俺からすればアリだと思うんですけどね……?」