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血の果実

作者: 燐
掲載日:2026/08/25

 むかしむかし。あるいは、遠い未来のこと。


 あるところに、十八歳の誕生日をむかえた美しい少女がいました。少女の暮らす国では十八歳は成人として扱われますが、彼女はまだあどけなさを残しています。


 少女には、大好きな人がいました。その人は、ずっと遠い国で働いていて、最近になってこの国に帰ってきた年上の男でした。


 彼は凪(な)いだ湖のように穏やかで、まるで父のような慈愛を持った独り身の男でした。少女には、生まれたときから父親はいませんでした。もし父親がいたら、きっと彼のような人だったんじゃないかと思ったりもしたのです。


 二人は出会ったその日から、ごく自然に惹かれ合い、何度も何度も愛し合いました。やがて少女のお腹の中に小さな命が宿ったのです。


 それは世界中のどこにでもある、ありふれた、けれど二人にとっては世界でたった一つの、美しい恋の物語になるはずでした。


 男は少女を愛していましたし、少女もまた、男を心から愛していました。そこには、誰かを騙そうという悪意も、誰かを傷つけようという嘘も、ひとかけらもありませんでした。


 二人はただ、純粋に愛し合っていたのです。けれど、神様の悪ふざけか、あるいは悪魔の罠か。ある日、二人の前に真実という名の悪夢が突きつけられたのです。この悪夢が彼らをどこへ連れていくのかは、物語を進めていく中で明かされることになるでしょう。


 男には、大昔に別れた妻がいました。そして男は争いの続く、過酷で悲惨な遠い国に働きに行かねばなりませんでした。妻は、夫がその遠い国に行くのを猛反対しました。


 しかしながら男も頑なに譲らず、結局、この二人は別れてしまったのです。別れた後、元妻はお腹の中に元夫の子を宿していることを知りました。


 一方。少女には、自分を女手一つで育ててくれた母親がいました。母親は娘のために寝る間も惜しんで働き、一心に愛情を注ぎました。


 少女は男を母親の元へと連れて行きました。


 男を外で待たせ、娘は母親にお腹に命を宿したことと、彼と結婚することを伝えました。母親は穏やかな笑みを浮かべ、涙ぐみながら頷いています。


 いよいよ母親と男が対面することになりました。母親は、おずおずと入ってきた男を見るなり、目を見開きました。そしてひと言。


「あんた……」


 なんと、少女が肌を重ね、一生を添い遂げようと誓った男は、かつて自分が生まれる前に離れ離れになった、実の父親だったのです。少女と男は運命の赤い糸ではなく、赤い血で繋がっていたのです。


 そして、この恐ろしい真実を知った少女の母親が、二人の前に立ちはだかりました。

 静かな部屋に、我に返った母親の、雷鳴のような怒号が轟きました。


「信じられない! 気持ち悪い! なんて破廉恥なことをしてくれたの!!」


 母親は髪を振り乱し、鬼のような形相で少女の肩を激しく揺さぶりました。その手は怒りと恐怖で小刻みに震え、その目は娘を飛び越え、少女の後ろに立つ元夫へと、鋭い刃のような憎悪を向けていました。


「あんたね! あんたがこの子をたぶらかしたのね! 私の元を離れた挙句、帰ってきて私の娘に手を出すなんて、人間の皮をかぶった悪魔よ! 許せない。そう。私。私だけじゃない。この世界の誰も、あんたを許したりしないわ!」


 母親はただ、自分の命よりも大切な娘を、この世で最もおぞましい禁忌から守り、救い出そうと必死だったのです。


 それと同時に。別れたとはいえ元夫と娘が関係を持ったことに、激しい嫉妬を覚えていました。夫と別れた後、新しい恋人も作らず、ただ娘のために生涯を捧げてきたのですから。


 その泥のようにドロドロとしたものは、果たして元夫と娘のどちらに向けられたものなのか、母親にも分かりませんでした。


 ただ一つ分かったことは、寂しさと、悔しさと、やるせなさにまみれ、女としての尊厳を著しく傷つけられたことだけでした。


 ここで思ってもみないことが起こりました。母親のその激しい炎は少女の心をあぶり、男に対する愛の炎を燃え上がらせてしまったのです。

「やめて! 彼は悪くない! 私が、私が愛したの!」

 少女は母親の手を振りほどき、男の前に立ちはだかりました。


 娘のその仕草が、怒り狂った炎のように燃え盛る母親に油を注ぎました。少女を払いのけると、男にしたたかに平手を打ち「気持ち悪い」「異常だ」と罵倒しながら追い返してしまったのです。


 この瞬間、少女の胸に宿っていた純粋な恋心は、またたくまに凍りつき、まるで樹氷のような悲恋へと姿を変えました。


(世界中が彼を悪魔と呼ぶのなら。彼を許せないというのなら。私だけは彼の味方にならなければ……ならない!!)


 少女の頭の中は、そんな激烈な使命感で満たされていったのです。


「あなたも目を覚ましなさい! お願いだから、そんな汚らしいことをしないで!」

母親は少女の手を引くと、そのまま二階にある狭い子供部屋へと押し込め、外から鍵をかけました。


「あの男が近づかなくなるまで、一歩も外へ出しませんからね。それと、そのお腹の子は堕ろしなさい! このまま産んだら、世間様にどんな目で見られるのか、分かっているの?」


 子供扱いされ、自由を奪われ、彼と育んだ命を拒絶されたことで、彼女のプライドはズタズタに引き裂かれました。そして暗い部屋に取り残された少女の心は激しく反発し、おどろおどろしく燃え上がっていました。


 同時に、この部屋の向こう、外の世界で一人で絶望しているであろう、愛する彼への想いは、狂気的な執着へと膨れ上がっていきます。


(お母さんには、私たちの絆の深さは分からない。汚れているのは私たちじゃない、私たちの愛を汚そうとするこの世界の方だ)


 ――数日後の雨の夜。


 少女はシーツをベッドの脚へ硬く結びつけ、窓からスルスルと降りていきました。


 向かう先は、ただ一つ。あの人の腕の中です。幸いにも夜の街で、再び男にめぐり逢うことができました。再会した二人に、もう迷いはありませんでした。まるで二つの磁石のように、彼らは再び結ばれたのです。


 うらぶれたホテルのベッドの上。疲れ果てた男の耳に、少女は強い意志を灯して囁きます。


「誰も悪くないのに、どうして私たちは引き裂かれなきゃいけないの? ……ねえ、誰も私たちの愛を汚せない、遠いところへ行きましょう」


 少女の狂気ともいえる言霊(ことだま)が、男の理性を黒く塗りつぶしました。二人は固く手を繋ぎながら、海へと向かいます。


 ――激しい雨が打ち付ける漆黒の崖の淵。


 見下ろす海は、すべてを包み込むように黒く、深く、静かでした。


「お母さん、さようなら。誰にも私たちの愛は引き裂けないわ」

 少女は吹きすさぶ雨の中で、勝利を確信したような歪んだ笑顔を浮かべ、彼と共に崖の先に広がる深淵の海へと一歩を踏み出しました。


 残されたのは、娘の部屋の開いた窓と、遺された母親の、まるで地獄の責め苦を受ける亡者のような叫び声だけでした。


 激しい北風のような母親の言葉は、少女の愛を吹き飛ばすどころか、彼女を死の外套で包み込ませてしまったのです。


 ――世界が反転しました。意地悪な神様によって。あるいは微笑みを湛えた悪魔によって――


 雨の止んだ朝。少女と男が砂浜に打ち上げられていました。


「あれ……生きてる?」


 少女の、そのあどけない言葉に、男の心は後悔でいっぱいになりました。彼は過ちを悟り、彼女を家へと送っていきます。


 そこには激しい怒号も、涙の糾弾もありませんでした。居間に響いていたのは、お気に入りのティーカップに静かに注がれる紅茶の音だけでした。


 母親は、ゆっくりとふたりの前に温かいカップを差し出しました。その表情は穏やかで、まるで娘が学校の些細な出来事を報告してきたのを楽しんでいるような微笑みを浮かべていました。


「私も大人げなかったわ。お互いに実の親子だと知らなかったのなら、仕方のないことだったのに」


 彼女の声は、驚くほど澄んでいました。少女は身構えていた分、拍子抜けしたように母親の顔を見つめました。


「あなたたちが、わざと誰かを傷つけようとしたわけじゃない。もうこれ以上、責めるつもりなんてないわ。でもね、真実がわかった以上、これからは節度を持って付き合いなさい」


 母親の放った「節度」という言葉は、呪文のように静かに部屋の空気を湿らせました。


 少女の心に灯っていた「世界を敵に回してでも彼を愛する」という情熱の炎が、母親のこの一言によって、一瞬にして鎮火してしまったのです。


 もし母親が再び怒り狂ってくれたなら、少女は今度こそ、彼女の元を去り、男の胸に飛び込むことができました。


 しかし、母親が聖母のようにすべてを受け入れたことで、少女は反発する矛先を完全に失ってしまいました。


「……節度って、どういうこと?」


 少女が恐る恐る尋ねると、母親は優しく娘の髪を撫でました。

「文字通りの意味よ。デートをするのも、一緒に暮らすのも、あなたたちの自由。だって誰も悪くないんだもの。ただ、街を歩くときは周りの目にだけは気をつけてね」


 母親は白バラのような笑みを浮かべながら続けます。

「それから、お腹の子どもが生まれたりしたら……ねえ、どうなるかは成人になったあなたになら分かるでしょう? 私は止めないわ。すべてあなたたちの責任よ」


 その瞬間、最初に耐えられなくなったのは、後ろにいた男でした。元妻の、異常性をすべて理解し諦めました、と言わんばかりの無条件の肯定が、恐ろしくなったのです。


 そして彼は、自分のしていることが、美しい純愛などではなく、禁忌に足を踏み入れていたということを、嫌というほど自覚させられたのです。


 数日後、男は少女の前から静かに姿を消しました。元妻の底知れぬ恐怖と、娘を女として愛することの罪悪感に、心が耐えきれなくなって。


 残された少女は、何かをする気力さえ失っていました。彼女の心の中に残ったのは、燃え上がるような情熱ではなく、ぞわぞわと柔肌を這(は)いずる毛虫のような嫌悪感と不潔感だけでした。


 母親は今日も居間で、そしらぬ顔をみせながら紅茶を淹れています。


 ――再び世界が反転しました。神様が腹を抱えて笑いながら。あるいは冷笑を浮かべる悪魔によって――


 少女は男を呼び戻しました。現実的に赤ちゃんを産むにしても、男の協力がどうしても必要だったからです。


 男を連れて帰るなり、居間にいた母親が彼に対して言いました。

「あんた、私たちやり直せるわよね。よくよく考えたら、もう別れる原因って無くなってるわけだし」


 全ての原因は、男が遠い国で働くことにありました。男が帰って来た以上、すでに問題は解決していたのです。


 母親は娘に対しても優しく諭(さと)します。

「あなたたちだけでは、どう足掻いても夫婦として一緒に暮らすことはできないわ。だから私が取り持ってあげるの」


 こうして男と母親は復縁しました。復縁したその日、母親は娘に言いました。


「夫と寝室に行くわ。あなたも早く寝なさい」

「待って。お父さんと一緒に寝るのは私よ」

「馬鹿なこと言わないで。成人した娘と一緒に寝るお父さんがどこにいるの? そうそう……今度、あなたに弟か妹の顔、見せてあげられるかしら」


 母親は勝ち誇った笑みを娘に向けました。しかし、少女も負けていませんでした。

「それは嬉しいわ! お母さんにも孫の顔を見せてあげるから」


 ――一年後。


 少女は無事、女の赤ちゃんを出産しました。そして母親も、元気な男の赤ちゃんを出産しました。


 少女はにこりと微笑みながら、赤ちゃんを父親の前に差し出します。

「ほーら。あなたのお父さんですよー」

 父親は複雑そうな顔をしながらも、口元は緩んでいます。


 次は、自分の赤ちゃんを愛おしそうに抱いている母親を見つめました。おもむろに彼女の前に赤ちゃんを差し出します。

「こっちは、あなたのおばあちゃんよ」

 母親は苦り切った顔をしながらも、父親と同じく口元は緩んでいました。


 こうして赤ちゃんの賑やかな泣き声に囲まれながら、家族全員が健やかに暮らしましたとさ。


 めでたしめでたし。


(おわり)

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