つるの恩返し ――作業中につき、覗かないでください
閉店の札を裏返したころ、雨はまだ細く残っていた。
商店街のアーケードを抜けると、川沿いの道は静かで、濡れたガードレールだけが街灯を拾い、黒い水面に薄い光を引いている。肩に掛けた工具袋が、歩くたびに重く揺れた。店に置いて帰ればいいものまで持ち帰るのは、もう癖のようなものだった。
橋の下で、きん、と細い音がした。
雨音に紛れて消えそうなのに、耳の奥にだけ残る音だった。足を止めて覗き込むと、フェンスの支柱に白い鳥が絡まっている。雨を吸った羽は重く垂れ、細い脚が不自然な角度で引かれていた。
釣り糸かと思って近づいたが、違った。
古いギターの弦だった。
たぶん、誰かが切って捨てたものだった。
鳴る場所を失ったものが、雨に流されて、鳥の脚に絡まっていた。
錆びた銀色の線が、鳥の脚とフェンスの網目を縛っている。鳥は暴れず、黒い目だけでこちらを見ていた。怯えているというより、何をするのか待っているようだった。
「動くなよ」
通じるはずもないのにそう言って、工具袋からニッパーを取り出す。雨に濡れた弦は思ったより硬く、刃を入れた瞬間、指先に小さな震えが返ってきた。
きん、と鳴る。
鳥は自由になった脚をそっと引き寄せ、一度だけ羽を広げた。白い翼が雨粒を払い、橋の影から夜へ浮かび上がる。飛び立つ直前、こちらを見たような気がした。
手の中には、切れた弦だけが残った。
泥と錆にまみれ、途中で曲がっている。捨てればいい。ただ、それだけのものだった。
それでも俺は、ポケットに入れていた。
翌日の昼過ぎ、店に女が来た。
白い服を着ていた。雨上がりの光を薄く畳んだようなワンピースで、髪も白に近く、肩のあたりまで静かに落ちている。若いようにも見えたし、ひどく古いものが人の形をしているようにも見えた。
「こちらで、働かせていただけませんか」
最初の一言がそれだった。
俺は作業台の上のギターから顔を上げた。入口のベルは、まだ小さく揺れている。床には修理待ちのケースが積まれ、剥げかけた値札がカウンターの隅で反っていた。
「求人は出してません」
「はい」
「人を雇う金もありません」
「お金はいりません」
「それはそれで困る」
「では、置いてください」
「もっと困る」
女は困った様子もなく、白い袖の前で指をそろえた。
「恩返しに来ました」
店の中で、古いアンプが冷えたみたいに沈黙した。
「……昔ばなしじゃあるまいし」
口にしてから、馬鹿なことを言ったと思った。
「昨日の、鳥か」
女は笑わなかった。ただ、少しだけ目を伏せる。
「助けていただきましたよ。確かに」
それだけ言って、彼女は白い袖口をそっと握った。
「悪いけど、帰ってくれ。身元も分からない人を置くわけにはいかない」
「はい」
女は素直に頷いた。
そのまま出ていくかと思ったが、視線だけが作業台の上で止まる。古いアコースティックギターが一本、弦を緩めたまま横たわっていた。
「触っても、いいですか」
「弾くのか」
「いいえ。起こすだけです」
また変なことを言う。
女の指が、ギターの表面に触れた。拭いたわけでも、磨いたわけでもない。ただ木目に沿って、そっと撫でただけだった。
それなのに、くすんでいた艶が少し戻った。
傷は消えていない。古さも変わらない。ただ、眠っていたものが薄く目を開けたように見えた。
「……何をした」
「触りました」
「それは見れば分かる」
「では、それだけです」
女は手を離した。
夕方になると、彼女は奥の作業部屋を見た。
「夜だけ、あの部屋を貸してください」
「何をするんだ」
「返します」
「何を」
「音を」
吊るされたギターの影が、店の奥でわずかに揺れた。弾く人間のいないギターを直してほしいと言う客もいれば、二十年開けていないケースを前にして、一緒に開けてくれと頼む客もいる。
俺が黙っていると、彼女は白い袖から覗く細い手首をそっと重ねた。
「作業しているところを、見ないでください」
その声は、ほどけかけたものを両手で押さえているようだった。
「分かった」
「理由は、聞かないんですか」
「聞いてほしそうじゃない」
彼女は少しだけ笑った。
夜になると、奥の作業部屋から音がした。
ギターではない。ピアノでも、バイオリンでもない。もっと細く、もっと近い。濡れた針金を指で弾いたような音が、扉の隙間から店の暗がりへ流れてくる。
俺はカウンターで伝票を整理しながら、その音を聞いていた。
扉は開けなかった。
翌朝、修理待ちのギターが一本、鳴るようになっていた。
持ち主は、亡くなった妻が使っていたものだと言っていた。ネックは反り、ブリッジは浮き、弦を張れば木が泣きそうな状態だった。それでも作業台の上に置かれたそのギターは、朝の光の中で静かに艶を戻していた。
弾いてみると、音は完璧ではない。少し濁って、少し遅れて、古い木の奥から迷いながら出てくるような音だった。
夕方、受け取りに来た男は、最初のコードで黙り込んだ。
「……こんな音だった」
それだけ言って、しばらく帰らなかった。
それから、似たような依頼が少しずつ増えた。
父親の形見だという十二弦。誰も弾かなくなったベース。安物なのに、どうしても手放せないというアコースティック。
けれど、俺が一番よく覚えているのは、最初の男のギターだった。
あの男は、後日もう一度だけ店に来た。弦を買うわけでも、調整を頼むわけでもなかった。ただ、カウンターの前に立って、妻が好きだった曲名をひとつ言い、それから小さく頭を下げて帰っていった。
夜になると彼女が奥へ入り、細い音が店の中を渡る。朝になると、楽器は少しだけ戻っている。新品にはならない。傷も歪みも、塗装の割れもそのままだ。ただ、誰かが手放せなかった理由だけが、底の方からそっと起きてくる。
店の評判は、すぐに広がった。
動画を撮らせてくれという客が来た。制作風景を出せば伸びると言う男もいた。取材のメールも届いた。
謝礼の額を見て、返信欄に一度だけ文字を打った。
よろしくお願いします。
送信ボタンの上で、指が止まる。
奥の部屋から、細い音がした。
俺は、そのまま画面を閉じた。
彼女は、夜だけ奥へ入った。
朝になるたび、白い顔はさらに白くなっていく。髪が少し短くなった気がした。指先には細い赤い筋が増え、袖口から覗く手首は、初めて会った日より薄く見えた。
「もういいんじゃないか」
ある朝、作業台の上のピックをそろえている彼女にそう言うと、彼女は首を振った。
「まだ、返せていません」
「十分だろ」
「いいえ」
静かな声だった。
俺は、それ以上聞かなかった。
その夜、また取材のメールが来た。
画面に並んだ金額を見て、しばらく閉じられなかった。店は助かる。工具も買える。滞っていた支払いも片づく。白い服の女が古い楽器を蘇らせる幻想的な映像、と企画書には書いてあった。
奥の部屋から、細い音がする。
いつもより弱かった。もう残っていないところから、まだ何かを鳴らそうとしているような音だった。
俺はメールを閉じた。
その直後、奥で大きな音がした。
椅子が倒れたような、木の胴が床を打ったような、嫌な音だった。
「おい」
扉の前に立つ。返事はない。
「大丈夫か」
やはり、返事はなかった。
見ないでください、という声が耳の奥に残っている。
それでも、扉の向こうは静かすぎた。
扉を開けた。
作業部屋に、白い鳥はいなかった。
白い服の女もいなかった。
床に、ギターが一本倒れている。
その隣に、ぷつりと千切れた弦が落ちていた。
それだけだった。
作業台の下に、白い羽のようなものがあった。拾い上げると、それは羽ではなく、細くほつれた弦の巻き糸だった。
橋の下。雨。白い鳥。フェンスに絡まっていた、古いギターの弦。
鳥は、あの夜に飛んでいった。
俺は床の弦を拾った。切れた端が指に刺さり、血がにじむ。弦はもう震えなかった。
翌日、店は開けなかった。
奥の作業部屋で、千切れた弦を前に座っていた。
一度切れた弦は、もう戻らない。結んでも音は濁るし、張ればすぐ切れる。客の楽器なら、迷わず新品に替える。
それでも、捨てなかった。
錆を落とし、切れた端を整え、細く裂けた巻き糸を指先で撫でつける。店の隅には、誰も買わなかった古いギターがあった。傷だらけで、音も暗い。けれど、木だけはまだ死んでいなかった。
そのギターに、弦を張った。
ペグを回すたび、細い軋みがする。今にも切れそうで、少し力を入れればそこで終わってしまいそうだった。それでも弦は、最後のところで踏みとどまった。
息を止める。
指を置く。
弾いた。
音は、ひどく細かった。
まともな音ではない。店に出せる音ではない。誰かに聞かせるための音でもない。けれど、その奥で、確かに声がした。
――恩返しに来ました。
初めて店に来た日の、あの声だった。
俺は店の表へ出て、入口の札を裏返す。
開店ではない。
白い紙に、一文だけ書き足した。
――作業中につき、覗かないでください。
店の奥で、古いギターが一度だけ鳴った。
きん、と。
雨の夜、橋の下で聞いた音だった。




