第十二話第三章
御堂新は、自分が目立つ存在であることを理解していた。父は大手企業の役員で、母は華やかな社交界に名を馳せる。小さいころから整えられた服と教育を受け、自然と周囲の注目を集めることが当たり前だった。高校に入ってからもその立場は変わらない。背が高く端正な顔立ち、会話の間を読む巧みさ。男子からは一目置かれ、女子からは好意を向けられる。御堂の周囲には常に人がいた。
だが、その自信を揺るがす存在が現れた。
鯉住悌一。愛知から転校してきた無口な少年。特別な家柄があるわけでもなく、スポーツに秀でるわけでもない。ただ黙々と授業を受け、休み時間には窓の外を眺める。その姿は最初、凡庸に見えた。だが芹川華が、彼の隣にいるようになってから状況は変わった。
華は御堂にとって「ふさわしい相手」だった。社交性、容姿、品格。誰もが憧れる存在であり、御堂の傍らにいることでさらに輝きを増すはずだと信じていた。だからこそ、彼女が無名の転校生と笑い合う姿は、耐えがたい屈辱だった。
「……鯉住、か」昼休み、弁当を食べる二人を遠くから見つめながら、御堂は低くつぶやいた。
―――ある日の放課後―――
鯉住が机を片付けていると、御堂が笑みを浮かべて近づいてきた。周囲には数人の男子が取り巻きのように控えている。
「なあ鯉住。少し時間あるか?」
「……はい」
「じゃあ裏庭まで付き合ってくれよ。話したいことがある」
鯉住は首を傾げながらも素直に頷いた。御堂が向ける笑みの奥に敵意が潜んでいることに、気づいてはいなかった。裏庭は静かだった。校舎の影に隠れ、風に揺れる草の匂いが漂っている。御堂はそこで立ち止まり、振り返った。
「お前、最近華とよく一緒にいるよな」
「……ええ。同じバス路線だから、自然と」
「自然と、ね」
御堂の目が鋭く細められる。「悪いが、華は特別なんだ。誰でも隣に立てる存在じゃない」
「そう思うなら、なおさら誰にでも話しかける彼女を否定するのは失礼では?」鯉住の声は淡々としていた。挑発する意図はなく、ただ事実を述べたにすぎない。だが御堂には、その落ち着きが逆に癇に障った。
「……お前、俺を馬鹿にしてるのか?」
「そんなつもりはありません。」
「ならいい。だが忠告しておく。これ以上、華の隣を当然のように歩くな。俺は見ている」
鯉住は少し考え、やがて首を横に振った。「彼女が望むなら、私は隣にいる。それだけです」
御堂の拳がぎり、と音を立てた。だが殴りかかることはなかった。背後で見ている取り巻きの視線がある。ここで手を出せば、自分の評判を傷つける。御堂は吐き捨てるように言った。
「……覚えておけよ」そう言い残し、踵を返した。
―――その数日後――昼休み。―――
華が鯉住の隣に腰を下ろすと、教室の空気がざわりと動いた。御堂が立ち上がり、二人に向かって歩いてきたのだ。
「芹川さん、ちょっといいかな」御堂の声は柔らかかったが、どこか有無を言わせぬ響きがあった。
華は箸を止め、顔を上げる。
「なにかしら?」
「今度のクラス委員会の件で相談があってね。少し、時間をもらえる?」
クラス委員会など名目にすぎないことは誰もが分かっていた。だが御堂がそう言えば、断りにくい。教室の視線が集まる中、華は困ったように鯉住を見た。
「……ごめんなさい、ちょっと行ってくるわ」
「ええ。」
鯉住は頷いた。気にしていないように見えるその態度が、御堂には余計に癪だった。
華が戻ってきたのは昼休みの終わり間際だった。微笑んでいたが、その表情にはわずかな疲れが滲んでいた。
「どうかしましたか」鯉住が問いかける。
「……御堂くん、少ししつこいの。『自分の隣にいるべきだ』って」
「そうですか。今日は火の燃えるごときの雲模様ですね。」
鯉住はそれ以上何も言わなかった。ただ静かに窓の外を見た。その淡白さが、華の胸を少しだけ軽くした。彼は嫉妬や独占欲に囚われない。だからこそ、隣にいても息苦しさを感じないのだ。
御堂の苛立ちは募っていった。彼は人気者だ。望めば誰もが振り向く。だが華だけは違う。転校生の隣にいることを選び、御堂の視線をまっすぐに受け止めようともしない。
「……許せない」
その夜、御堂は自室で天井を睨みながらつぶやいた。豪奢な部屋、整えられた家具。何不自由ない環境の中で、初めて「手に入らないもの」があることを知った。
嫉妬は、ますます深く、黒く、彼の心を侵食していった。やがて行動は、単なる忠告や遠回しな牽制では収まらなくなる。
御堂新の敵意は、鯉住にほとんど気づかれないまま、次第に形を持ちはじめていた。
その夜、鯉住悌一は机に教科書を置いたまま、無言でピアノの前に座った。転校の際に運び込んでもらった古いアップライトピアノ。譜面は開かず、指先の記憶に任せて鍵盤を叩く。
柔らかな旋律が、静まり返った部屋に流れていく。感情を吐き出すでもなく、慰めを求めるでもない。ただ、心を澄ませるように音を並べていく。昼間、御堂に言われた言葉も、華の微笑みも、すべてが音の波に溶けて消えていった。弾き終えたとき、彼は深く息をつき、淡々と椅子から立ち上がった。
――――――数日後――――――
昼休みの教室はいつも以上にざわついていた。きっかけは、御堂新が大きな菓子箱を抱えて入ってきたことだった。
「芹川さん、よかったら受け取ってくれないか」堂々とした声に、教室中の視線が集まる。差し出されたのは、有名な洋菓子店の限定品だった。包装紙には金のリボンがかかり、上品な香りが漂っている。
「わあ……」と周囲の女子が小さく声をあげた。だが華は、少し困ったように微笑む。
「ありがとう。でも、こんなに高価なものを受け取るわけにはいかないわ。」
「気にしないでほしい。家の者に頼まれて買ったんだ。余ってしまってね」御堂の言い訳は巧みだった。だが、その視線が「断ることは許さない」と告げていた。
「……じゃあ、みんなで食べましょうか。」
華はそう提案し、箱をクラスメイトたちへと回した。教室に歓声が広がる。だが御堂の目は笑っていなかった。華が「自分だけのため」に受け取らなかったこと。その横で鯉住が無言で弁当を食べ続けていること――すべてが苛立ちに変わっていた。
――――――放課後――――――
鯉住がバス停へ向かおうとすると、御堂が先回りするように姿を現した。制服のボタンをきっちり留め、余裕の笑みを浮かべている。
「奇遇だな、鯉住」
「……ええ」鯉住は特に警戒もせず立ち止まる。その鈍感さが、御堂を余計に刺激した。
「お前、このあたりに引っ越してきたんだってな。田端から通ってるとか」
「はい。知っているんですね。」
「調べればすぐわかるさ」
軽い調子で言いながら、御堂は一歩近づいた。
「俺はな、この学校のことも、クラスのことも、全部把握しているつもりだ。誰がどこに住んでいて、誰と仲が良いかもな」鯉住は目を瞬かせた。脅しのようにも聞こえる言葉を、彼はただ事実の報告として受け止めた。
「……そうですか」
「そうだ。だから忠告しておく。芹川華は俺の隣に立つべき人間だ。お前のような転校生が、いつまでも隣にいていい存在じゃない」
声色は穏やかだった。だが内容は冷たく鋭い。周囲に人がいないのを見計らった上で、御堂はさらに低い声で続ける。
「このまま距離を置かないなら……お前の居場所はなくなるぞ」
鯉住は首をかしげた。「居場所、ですか」
「そうだ。友人も、クラスの空気も。お前は浮くことになる」
淡々とした声に、御堂は逆に苛立ちを覚えた。脅しが効いていない。恐れる様子がない。
「……わからないやつだな」
「私には、ただ空を見ているときのように、静かでいられればいいのです」鯉住の答えは、御堂の計算を外していた。追い詰めたつもりが、壁に吸収されたように手応えがない。
「……まあいい。せいぜい今のうちに余裕ぶっていろ」御堂は背を向けた。その背中には、なおも冷たい怒りが燃えていた。




