第十二話第二章
――――――放課後――――――
校門を出ると、春の夕暮れが街を橙色に染めていた。通学路を歩く生徒たちの声が風に混じり、遠くでカラスが鳴く。
華はカバンを肩に掛け、停留所へと向かっていた。その背後から聞き慣れた足音が重なる。振り返ると、鯉住が無言で歩いていた。
「鯉住くんも、この路線?」
「はい。家の近くまで行けるので。」
「奇遇ね。私も同じなの。」
二人は自然に並んで歩き出した。距離は近すぎず、遠すぎず。昨日の教室での会話の続きを思わせる静けさがあった。やがて停留所に着き、バスが到着する。夕陽を浴びた車体がゆっくりと停まり、扉が開いた。乗り込む生徒たちに混じって、二人も乗車する。
空いていた二人掛けの席に、華が腰を下ろす。鯉住は一瞬迷ったように立ち止まったが、華の視線に促されて隣に座った。
窓の外には橙色の街並みが流れていく。車内のざわめきが遠ざかり、しばし沈黙が落ちた。だが不思議と居心地の悪さはなかった。
「……昨日言ってたわね。皆と違う場所を見ているって」華が小声で切り出す。鯉住は目を細め、外の景色を追いながら頷いた。
「ええ」
「でも、今は同じ景色を見ているわ。窓の外の夕焼けも、街も」鯉住はわずかに目を瞬かせ、そして静かに微笑んだ。
「……そうですね」
バスは夕暮れの道を静かに走っていく。二人の影は並び、街灯の光に揺れていた。
四月も半ばを過ぎ、クラスの雰囲気は少しずつ落ち着きを取り戻していた。新学期特有の浮き足だった空気が和らぎ、誰もが自分の居場所を固めはじめる。
その中で、自然と話題にのぼる存在が二人いた。
芹川華と、鯉住悌一。
華は言うまでもなく学校中で知られた美少女であり、誰に対しても分け隔てなく接する令嬢。鯉住は愛知から転校してきたばかりの転校生で、学力は高いと噂されつつも、どこか一歩引いたような佇まいをしている。最初は「釣り合わない組み合わせ」と思われていた。だが、昼休みに並んで弁当を食べたり、放課後のバスで一緒に座っていたりする姿が目撃されるたび、周囲の視線は自然と彼らに集まっていった。
「ねえ、あの二人ってさ……」
「なんか雰囲気よくない?」
「鯉住って無口そうなのに、華といると会話してるんだよな」
囁きは日ごとに増えていく。
その日も昼休み、華は迷うことなく鯉住の席にやって来た。
「今日も一緒に食べてもいい?」
「……ええ」短いやり取りだが、自然なやりとりに見えた。華は机を寄せ、二人で弁当を広げる。
「ねえ鯉住くん、東京ってどう? もう慣れた?」
「人が多いのは、まだ少し落ち着きません。愛知にいたときは、電車より自転車の方が楽でしたから」
「そうなんだ。田端からだとバス通学よね?」
「はい。駅までも歩けますけど、学校へはバスが一番早いです。」華は微笑みながら頷いた。彼女も同じ路線を使う。昨日の帰り道で分かった共通点だった。
その会話を横で聞いていた男子が、にやりと笑った。
「おーい、もうすっかり仲良しじゃん」
「華にあんなふうに話しかけられる男子、他にいる?」
からかう声が飛ぶ。だが鯉住は特に取り乱すこともなく、ただ箸を動かし続けていた。その落ち着いた様子が、逆に面白かったのか、クラスの空気は和やかな笑いに包まれる。
華も気分を害することなく、むしろ少し肩を揺らして笑った。「もう、みんな大げさなんだから」
その自然体のやり取りに、ますます周囲の注目が集まっていった。
――――――放課後――――――
教室に残っていた数人の生徒が、また二人の姿を目にする。窓際で鞄を手にした華と、その隣に立つ鯉住。特別な仕草はない。だが視線を合わせるだけで、どこか周囲とは違う落ち着きが漂っていた。
「やっぱり、いい感じだよな……」
「でも華って、毎日のように告白されてるのに」
「逆に鯉住だから自然に見えるんじゃない? あの落ち着き方」
ひそひそ声が、夕焼けの教室に重なる。
鯉住自身は気づいていないのか、あるいは気にしていないのか。校門を出てからも淡々と歩き、停留所に着くと並んで立った。華もまた、気取らぬ様子で隣にいる。バスが到着し、二人は同じ席に腰を下ろした。窓の外を流れる東京の街並み。高層ビルと古い商店街が混ざり合い、夕陽に照らされている。
「愛知の景色とは、だいぶ違うでしょう?」華が小声で問いかける。
「ええ。空は同じでも、街の色はまったく違う。……でも、どちらにも良さがあると思います」
「ふふ、鯉住くんらしいわね」
穏やかな声が重なり、バスは橙色の光の中を進んでいった。
――――――翌朝――――――
教室に入るとすぐにクラスメイトの視線が集まった。
「昨日も一緒に帰ってたでしょ?」
「本当に付き合ってるんじゃないの?」からかうような声に、華は微笑んで首を振った。
「ただの帰り道よ。同じバスに乗ってるだけ」
だがその否定は、むしろ興味を煽るだけだった。クラスの注目は日に日に強まり、二人の関係は知らず知らずのうちに「特別なもの」として見られはじめていた。
その男子は、昼休みの光景を黙って眺めていた。
芹川華と鯉住悌一が机を並べ、笑みを交わしながら弁当を食べている。昨日まではただの噂に過ぎないと思っていた。だが、目の前の光景はどう見ても「特別」にしか見えなかった。
胸の奥で、じりじりとした熱が広がる。
――まただ。
華に告白しては断られ、それでも諦めきれない男子は数え切れない。彼自身もその一人だった。何度も言葉を飲み込み、勇気を出せずにきた。その華が、転校してきたばかりの無口な男子と並んでいる。
「なんで、あいつなんだ。」思わず口の中でつぶやく。
鯉住は特別派手でもなく、スポーツができるわけでもない。ただ黙って空を見ているような男だ。だが華は、その静けさに惹かれているかのように、自然に隣に座る。苛立ちを抑えようとするほど、爪が机に食い込んだ。華の笑顔は、ずっと自分のためにあってほしかった。クラスの誰に向けられるよりも、転校生に奪われるのだけは耐えられない。
「……負けてたまるか」
男子は深く息を吐き、視線を鯉住に突き刺した。華の隣に立つその背中は、昨日まで存在すら薄かったはずなのに、今ではやけに大きく見える。嫉妬の炎は、静かに、しかし確実に燃え広がっていた。




