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第二十話仮寓章最終節

―――翌日―――

 

 春吉は再び鈴家の門を叩いた。驚いた様子の蓬が顔を出したが、春吉は「お世話になりました。お礼にもう一度」と言い訳をして座敷に通された。それからというもの、彼は毎日のように訪ねた。


 最初こそ蓬は戸惑いを見せたが、やがて仏壇の前に座る春吉を無言で迎えるようになった。春吉は手を合わせ、線香を供え、それから蓬の声に耳を傾けた。畑のこと、町のこと、時には秦孚の思い出。蓬が口にするたびに、春吉の胸には「自分が守らねば」という思いが強く刻まれていった。


 そんなある日、春吉が鈴家を訪れると、蓬の父である忠一が玄関先に現れた。髪には白いものが混じり、日に焼けた顔は厳格な雰囲気を漂わせている。蓬の後ろに立つその姿に、春吉は思わず背筋を伸ばした。


 忠一はしばし春吉を見つめ、それから低い声で言った。

 「君が……李春吉君か。」蓬から話を聞いていたのだろう。その声には探るような重みがあった。春吉は深く頭を下げ、言葉を失いながらも「はい」と答えた。


 こうして、春吉は鈴家の主と向かい合うことになった。


 座敷に通されると、忠一は仏壇に一礼し、それから春吉の正面に腰を下ろした。部屋には静かな緊張が漂い、蝋燭の小さな炎が影を揺らしている。


 「李君。……蓬にたびたび顔を見せてくれているそうだな。」低く落ち着いた声に、春吉は姿勢を正し、深く頭を下げた。


 「はい。自分は……一色大尉に神通の頃から世話になり、その後も航空学生として共に学び、鹿屋でも幾度となく助けられました。あの方がいなければ、私は今ここにいません。私は元々特攻隊員でした。」


 春吉は言葉を選びながら、これまでの出来事を語った。初めて叱咤され、勇気づけられた日。厳しい訓練で支えられた日。そして最後に、自分に蓬を託してくれたこと。話すうちに、胸の奥の熱が声ににじみ、自然と拳を膝の上で握りしめていた。


 「……ですから、私は蓬さんを幸せにし、守っていきたいと考えております。これは私自身の思いでもあり、一色大尉との約束でもあります。」


 言い終えると、部屋に再び静寂が訪れた。忠一はしばし目を閉じ、線香の煙を見上げていた。やがて口を開く。


 「なるほど……君が、秦孚君に託されたというわけか。」


 その声音には、驚きよりも確かめるような響きがあった。厳しい眼差しで春吉を見据えるが、そこには拒絶よりも、深い思案の色が浮かんでいた。


 「蓬はあの通り、まだ心の多くを秦孚に残している。しかし……時は流れていく。君の覚悟が本物であれば、やがて蓬の心を支えられる日も来るだろう。」忠一はそう言うと、線香をつまみ灰に置いた。その仕草はゆるやかでありながら、重い決断を示すようだった。


 春吉は深く頭を下げ、胸の奥で固く誓った。蓬を守り抜くことを。


 忠一との対話を終えた春吉は、胸の内にひとつの重みを抱えながらも、不思議と足取りは軽かった。秦孚の代わりではない。だが確かに、自分が蓬を守ることを許されたのだ。その実感が、彼を静かに奮い立たせていた。


 最初のきっかけは、畑での作業だった。ある日、蓬は草を刈り取ろうとして鎌を使い損ね、指先を切ってしまった。小さな傷ではあったが血が滲み出し、彼女は顔をしかめた。春吉は慌てて駆け寄り、自分の手ぬぐいを裂いて手早く包帯をこしらえた。

 「大丈夫ですか、蓬さん」

 

 「ええ……ありがとうございます」蓬は少し恥ずかしげに答えたが、その声色には、以前よりも柔らかさが混じっていた。これまでなら「すみません」とだけ言ってすぐ背を向けていた彼女が、ふと春吉の手元を見て「軍の方は、こういうのも訓練されているのですか?」と問いかけてきた。


 「いえ、これは現場で覚えたにすぎません。ただ……誰かを守らねばならぬとき、体が勝手に動くものです。」その言葉に、蓬は小さくうなずき、視線を落とした。まるで昔一緒に畑で遊んで手伝ってくれた秦孚を思い出したように。


 二度目は、夜のことだった。村にぽつぽつと並ぶ街灯の下、蓬は井戸から水を汲んで帰る途中だった。春吉が通りかかり、重そうに見えた桶を片手で受け取った。

 「私が持ちます」


 「そんな……」と最初は固辞した蓬も、結局は並んで歩くことになった。二人の影が地面に並び、静かな虫の声が耳に届く。


 「春吉さん」


 「はい」


 「……秦孚様は、最後まで戦っておられたのでしょうか」唐突な問いに春吉は足を止め、暗闇の中で真剣に頷いた。


 「はい。私が言えるのはそれだけです。ですが、あの方は蓬さんを想い続け、託してくださった。そのことだけは、どうか信じてください」蓬は桶を見つめながら、長く沈黙した。やがて小さな声で「ありがとうございます」と呟いた。その響きは、確かな距離の変化を告げるものだった。


 こうして、ほんの些細な出来事の積み重ねが、二人の心をゆっくりと近づけていった。忠一の言葉が後押しとなり、春吉の覚悟は蓬の心に届きはじめていたのである。


 春吉が宿毛に身を置くようになってから、季節は少しずつ移ろっていった。蓬は当初、亡き秦孚への想いを胸に抱きながら、春吉をただ「預けられた人」としてしか見ていなかった。しかし、畑仕事で手を貸してくれる春吉の姿や、不器用ながらも家の小さな修繕を黙々とこなす姿を目にするうち、次第にその態度に揺らぎが生まれていった。

 ある日の夕暮れ、彼女は鍬を振るう手を休めて、ふと呟いた。

 

 「春吉さんがいてくれると……心強いです」その声は小さく、かき消されそうなほどだったが、春吉の胸には確かに届いた。


 彼は振り返りもせずに「そう思っていただけるなら、ここにいる意味があります」とだけ答えた。


 蓬はそれ以上言わなかったが、口元にほんのりと柔らかな笑みが浮かんでいた。


 そんな変化は、春吉だけでなく周囲にも広がっていった。茜もまた、ある転機を迎えていた。鉄治郎を失った悲しみは深く、長く彼女の心を縛り続けていた。だが、蓬と春吉が肩を並べて土を耕す姿を目にするうち、「私も、このままではいけない」と思うようになった。ある朝、彼女は手拭いで髪を束ねて畑に現れた。

 「私も手伝わせてください」その言葉に、蓬も忠一も少し驚いたが、誰も止めることはなかった。茜は鍬をうまく扱えず、何度も泥を跳ね上げて笑いを誘った。それでも少しずつ体が慣れていき、やがて昔と変わらぬほどに畑に馴染んでいった。

 

 土に触れ、汗をかくことで、鉄治郎を想う痛みは完全には消えないまでも、少しずつ薄らいでいった。彼女自身もそれを感じ取っていたのだろう。


 夜の縁側で風に吹かれながら、「鉄治郎も、こうやって生きてほしいと願っていたのかもしれない」と呟いた。その言葉を耳にした春吉は、胸の奥に温かさを覚えた。


 そして、そんな日々が積み重なるうちに、春吉は鈴家の一員として扱われるようになっていった。

 田の畦道を歩けば、村人から「李さん、今日も手伝いですか」と声をかけられるようになり、蓬と茜は並んで笑みを返す。その光景は、つい先日まで想像できなかったものだった。


 ある日の夜のこと。畑の作業を終え、夕餉を囲んでいたとき、蓬がふいに箸を置いて春吉を見つめた。

 「春吉さん」


 「はい」


 「……ずっと、ここにいてくれませんか」その静かな言葉に、食卓の空気が止まったように感じられた。春吉は一瞬返答に迷ったが、目に映る蓬の瞳には、もう拒絶ではなく確かな信頼が宿っていた。

 茜も、両手を膝に置いたまま口を開いた。


 「私も……お願いしたいです。春吉さんがいると、蓬さんも、私も、なんだか守られている気がして」その言葉に重なるように、忠一と妻までもが頷いた。


 「李さん、君がいてくれることは、この家にとって大きな支えになる。どうか、この家族の傍にいてほしい」4人の視線が一斉に春吉へと注がれる。その真剣さに胸が熱くなり、春吉は言葉を失った。代わりにただ深く頭を下げ、「……承知しました」とだけ答えた。その声はかすれていたが、誰よりも確かな意思が込められていた。


 その晩、春吉は眠れなかった。月明かりに照らされる静かな夜を抜け出し、鈴家の裏手の大きな時峰に登った。眼下には、ぽつりぽつりと灯る明かりかなり多く見える。鈴家の屋根の下には、今や彼が守るべき人々が眠っているのだ。蓬も、茜も、忠一も。お義母さんも。その温もりを思うと、胸の奥に不思議な安堵と決意が広がっていった。

 風が頬を撫で、遠く波の音がかすかに届く。春吉は拳を握りしめ、小さく呟いた。

 

 「ここで、生きていこう」そう言った彼の瞳には、確かな未来への灯が宿っていた。

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