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第二十話仮寓章第三節

 広島で軍を辞めた春吉は、胸に抱えた手紙の重みを頼りに、汽車を乗り継ぎ南へ向かった。終戦後の夏、暑さは厳しいがどこか張りつめたものが緩んだ空気が広がっていた。だが春吉の心は少しも安らがなかった。便箋に記されていた住所――高知県宿毛の街に行けば、秦孚が最後に託した「蓬」という女性に会える。けれど自分が何者であるかをどう名乗ればいいのか、その答えは見つからないままだった。


 宿毛の街に降り立つと、そこは広島とはまるで違っていた。繁華街のざわめきもなく、石油バスや路面電車といった都会の象徴もない。並んでいるのは木造家屋と夜道をぼんやりと照らす街灯だけ。商店の看板も色あせ、夕方の六時を過ぎると人通りはぐっと少なくなっていた。蝉の声だけがいつまでも耳に残り、海の匂いが風に混じって漂ってきた。


 春吉は歩きながら何度も立ち止まった。「蓬さんに、どう話せばいい……?」秦孚の死を直接伝えるのか。いや、蓬はもう知っているかもしれない。だとすれば、自分はただ一兵士として訪ねたにすぎないのではないか。けれど秦孚は最後に、自分に蓬を託した。ならばそのことを伝えるのが使命なのだろう。答えは見つからないまま、いつしか宛名の住所の前に立っていた。


 夜七時過ぎ。すでに家々の灯りは暗く、街灯の明かりだけが頼りだった。木造二階建ての、瓦屋根の家。表札には確かに「鈴」と記されていた。春吉は息を吸い込み、戸を叩いた。


 しばらくして、戸口に出てきたのは見知らぬ女性だった。四十代ほどに見える、厳しいがどこか疲れを帯びた顔。春吉は軽く頭を下げて言った。

 「蓬さんに……蓬さんにお会いしたくて参りました。」女は怪訝な表情を見せた。


 「蓬?秦孚さんじゃないんだけど、誰じゃろか?」と独り言のように呟き、奥へと引っ込んでいった。どうやら蓬の母親らしい。


 春吉は胸の鼓動が速くなるのを感じながら、足をそろえて待った。やがて、奥の廊下から軽い足音がして、一人の若い女性が現れた。黒髪を後ろで束ね、痩せてはいるが芯の強そうな瞳をしている。彼女が蓬だった。


 蓬は春吉をまっすぐに見つめ、小さな声で言った。

 「私が蓬です。……どちら様でしょうか?」


 春吉は深く頭を下げ、自己紹介をした。

 「私は春吉と申します。秦孚様とは、海軍で……神通に乗っていた頃からのご縁でございます。航空学生のころ、訓練で幾度もご一緒しました。一色さんが……私に、とてもよくしてくださったのです。」


 蓬の表情は変わらなかった。ただ、静かに頷き、「どうぞ、中へ」と言った。


 通された家は質素な造りだった。四畳半の部屋が二つ、そして六畳間が一つ。天井は低く、板の間は磨き込まれているが年月の痕跡が刻まれていた。案内されたのは仏壇のある部屋だった。正面には位牌が並び、線香の香りが漂っている。


 蓬は仏壇の前に座り、春吉に目を向けた。

 「秦孚様と、どのような関係で?」


 その問いは静かでありながらも、心の奥を探るように鋭かった。春吉は一瞬ためらったが、やがて決意を固めるように口を開いた。


 「神通にいたころ、まだ私が若輩の水兵であった時分から……一色さんにはずっと目をかけていただきました。霞ヶ浦での訓練でも、何度も助けられました。航空学生となってからも、彼は先輩であり、指導者でありました。……私は、その一色さんに命を救われ、そして最後まで一緒に戦った者のひとりです。」


 蓬は黙って聞いていた。表情は大きく変わらなかったが、仏壇の蝋燭の炎が揺れるたび、その瞳がかすかに潤んで見えた。


 春吉は膝の上に置いた手を強く握りしめた。自分がここに来た理由は、まだ告げていない。だが秦孚の最後の願いを胸に秘め、蓬にどう伝えるかを必死に探していた。


 春吉は背負ってきた荷物を静かに下ろすと、懐から一通の封筒を取り出した。角は少し折れ、長い道中で汗と埃にまみれていたが、それでも筆跡は力強く残っている。震える手でそれを両手に持ち、蓬の前に差し出した。


「これを……蓬さんに、と。一色さんに頼まれました。」


 その一言を発するまでに、胸の奥で何度も飲み込んできたものがあった。蓬は小さく息を呑むと、両手で封筒を受け取った。仏壇の灯りに照らされるその指先は細く、緊張にわずかに震えていた。


 封を切り、便箋を広げる。仏壇の蝋燭の光に筆跡が浮かび上がった。春吉には内容を読むことは許されなかったが、それでも秦孚の弱々しく、けれど凛とした筆遣いが目に映っただけで、胸の奥に痛みが走った。


 しばらく、部屋には紙の擦れる音しかなかった。蓬は声を立てず、ただ目を追い続けた。茜のように声を張り上げ泣くことはなかったが、その肩の震えと、伏せられた瞼の下に光るものが彼女の悲しみを物語っていた。線香の煙が淡く揺れ、その静けさがいっそう涙をにじませる。


 読み終えた蓬は便箋を胸に当て、しばし目を閉じた。そして、春吉に向かい深く頭を下げた。

 「ありがとうございました。……李さん。」


 名を呼ばれた瞬間、春吉の胸は詰まった。これまで姓で呼ばれることが多かった彼にとって、その響きは特別に思えた。しかし同時に、彼女の瞳の奥にいるのは自分ではなく、あくまで亡き一色秦孚であることを思い知らされる。


 蓬は顔を上げ、努めて静かに言葉を続けた。

 「今日はもう遅いですし……近くに民宿もあります。そちらにお泊まりください。明日になれば広島に戻れますよ。」


 その声に冷たさはなく、けれどどこか距離を置いた響きがあった。春吉は頭を下げ、「はい」と応じた。しかし心の内では、「戻る」ことなど考えていなかった。秦孚が自分に託した願い――それは蓬を守ることだと信じていたからだ。


 その夜、春吉は蓬の言葉に従い、宿毛の小さな民宿に泊まった。安普請の畳の部屋に横になったが、眠気は訪れなかった。布団の中で天井を見つめ、秦孚の笑顔と最後の手紙の言葉が繰り返し脳裏に浮かんだ。やがて夜が白み始めると、決意は固まっていた。


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