第二十話仮寓章第二節
鹿屋飛行場は、夏の午後の陽射しに白く焼け付いていた。蝉の鳴き声が止むことなく続き、滑走路の端では熱気が立ち上り、空気そのものが歪んで見える。遠くからエンジン音が近づくと、兵舎の陰に集まっていた整備兵たちが一斉に顔を上げた。やがて、機体番号を刻んだ零戦が、ゆっくりと脚を下ろし、滑走路に接地する。午後一時四十分。野村中佐の機体だった。
病院の窓辺にいた春吉は、その姿を見つけると、堪えきれない衝動に突き動かされた。まだ足の怪我は癒えていない。だが彼は窓を押し開け、杖もつかずに廊下へ出て、引きずるように足を運んだ。外気は蒸し風呂のように肌を刺し、汗が背を伝う。飛行場の土を踏みしめるたび、足首から痛みが込み上げる。それでも止まることはできなかった。
格納庫の脇に機体が停止する。プロペラが回転を止めると、周囲は急に静まり返る。整備員が駆け寄り、油と焼けた金属の匂いが漂った。春吉はその場にたどり着き、肩で息をしながら野村中佐の姿を探す。
操縦席から降り立った中佐は、麦わら帽子をかぶった農夫のように汗に濡れた顔を拭った。春吉は近づき、震える声で問う。
「……一色大尉は、どうなりましたか?」
野村は口を開きかけて、しかし言葉を選ぶように視線を落とした。やがて低い声で答える。
「途中で……私の機体が不調になってしまってな。申し訳ない。見送ってやることもできなかった」
それ以上の言葉は続かなかった。
春吉は拳を握りしめた。だが、野村の声音に滲む悔恨は、言葉よりも雄弁だった。周囲の整備兵たちも口を閉ざし、ただ足元の砂を見つめている。遠くの松林では風にあおられた葉がざわめき、蝉の声がなおも続いていた。空は抜けるように青く、白い雲が緩やかに流れていく。あまりに静かなその光景が、かえって胸を締めつけた。
格納庫の鉄板が陽に照らされ、じりじりと熱を放つ。汗が額から滴り落ちても、春吉は拭おうとしなかった。目の前の中佐の沈黙と、頭上に広がる夏空とが、何よりも雄弁に秦孚のいない世界を物語っていた。
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広島の空は、夏の陽炎で揺れていた。終戦の気配はまだ明確ではなかったが、街の人々の顔には疲労と諦念が漂っていた。春吉はようやく除隊の手続きを終え、軍籍から離れることができた。胸に残るのは安堵ではなく、深く沈んだ虚無であった。
支給された金――百円。元々は秦孚に渡るはずだった特別贈与金。掌に乗せた紙幣は思いのほか軽く、しかしその軽さがかえって心に重くのしかかった。彼はそれを封筒に戻すと、静かに懐へと押し込んだ。
その夜、彼は秦孚の遺品を探した。机の奥に残されていた紙束の中から、封をしたままの二通の手紙を見つけた。一通は蓬宛。もう一通は、自分――春吉宛のものであった。
春吉は手を震わせながら、自分の名が記された封筒を開いた。中の便箋には整った筆跡で、しかし掠れ気味の文字が並んでいた。
――春吉へ。
まずもって許しを乞う。私は君に何も告げず、己が判断で最後の出撃に臨んだ。君の身を案じながら、君を置き去りにしてしまったこと、そして君に別れを伝えることなく発ったことを、心から詫びる。
本来この役は私が背負うべきではなかったのかもしれない。だが、あのときの私には、それしか選ぶ道が見えなかった。勝手に決めてしまったことを、どうか恨んでくれても構わない。
ただ一つ、君に頼みたいことがある。私は蓬を高知に残した。彼女を思うと、胸が締めつけられるばかりだ。けれども私は、もう二度と彼女の前に立つことはできない。だからこそ、君に託したい。
春吉、君は私がよく知っている人物だ。弱さも強さも、すべて含めて私は信じている。君だからこそ、蓬を託せるのだ。どうか、彼女を孤独にしないでやってほしい。君ならば、彼女の涙を拭ってやれると私は信じている。
この願いを押しつけに過ぎぬとわかっている。だが、それでもなお私は、最後に残された頼みを君に託すしかない。お願いだ、春吉。どうか蓬を守ってくれ。
――秦孚
手紙を読み終えた春吉は、しばらく動けなかった。蝉の声が外から差し込む窓越しに響き、遠くでは川の流れる音が微かに聞こえていた。その音すら、いまは胸を突く。膝の上に落ちた便箋を見つめながら、春吉は瞼を閉じた。秦孚の声が耳元で囁くように蘇り、逃れようのない現実を突きつけた。
彼は震える指で便箋を丁寧に畳み、封筒に戻した。重みはない。けれどその中に宿るものは、春吉にとって百円の紙切れよりもはるかに重かった。




