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第十二話第一章

 四月の風はまだ少し冷たく、校庭に立つ桜の花びらをさらっていく。昼休みを終えたばかりの教室には、ざわめきと笑い声が渦を巻いていた。新しい学年を迎えたばかりの二年生の教室は、どこか浮き立つような気配に包まれている。


 芹川華(せりかわはな)は窓際の席に腰を下ろし、静かにノートを開いていた。艶やかな黒髪は肩のあたりで自然に揺れ、白い指先が紙の上をなぞる。華やかな顔立ちは誰の目にも止まるが、本人にその気取りはない。微笑めば柔らかく、言葉を交わせば誰に対しても分け隔てなく接する。そのため彼女は「学校一の美少女」と囁かれながらも、周囲から反感を買うことなく、むしろ慕われていた。


 窓の外には春の空が広がっていた。淡い青の中を、薄雲がゆるやかに流れていく。華は視線をそこに移し、ほんの少しだけ息をついた。穏やかな空気に溶けるように微笑みかけたその瞬間――教室の扉ががらりと開いた。


 「失礼します。」


 低く落ち着いた声が響く。そこに立っていたのは、一人の男子生徒だった。長身で姿勢は真っ直ぐ、制服も乱れなく着こなしている。だが最初に目を引いたのは、その視線の向け方だった。まるで誰かを探すのではなく、教室全体を通り越して遠くを見ているような眼差し。

 教師に促され、彼は黒板の前に立つ。


 「今日からこのクラスに入ります。鯉住悌一(こいずみていいち)です。よろしくお願いします。」


 言葉は簡潔だった。礼儀を欠くわけではない。だがその声音には、どこか淡々とした響きがあった。教室中に流れるざわめきが、一瞬だけ静まる。転校生はいつの時代も注目を集めるものだが、彼の落ち着きは年齢以上のものを感じさせた。


 担任の指示で、鯉住は窓際から二列目の空席に腰を下ろす。その動作もまた滑らかで、余計な音ひとつ立てない。鞄を机の脇に置き、椅子に背を預けたかと思えば――すぐに天井を見上げた。

 

 まるでそこに何か答えがあるかのように、静かに。//


 その仕草に、華はわずかに目を細めた。

 (……少し変わった人)

 そう思ったが、不思議と不快ではなかった。むしろ周囲の空気に流されない佇まいが、どこか気になった。


 休み時間、クラスメイトたちが次々に声をかける。

 「どこから来たの?」

 「趣味とかある?」

 問いかけに、鯉住は簡潔に答える。だがそれ以上を語ろうとはしない。会話は自然と尻すぼみになり、やがて相手は気まずそうに引き下がっていった。


 彼は人を拒むわけではない。ただ、必要な言葉しか口にしない。それが周囲を遠ざけていた。


 放課後。教室に残ったのは数人の生徒だけだった。窓から差し込む西日が机の上を赤く染める。華は教科書を鞄にしまいながら、ふと隣の席に目をやった。そこには鯉住が座り、外の空を凝視していた。

 その視線は桜並木を越え、さらにその先を追っているように見えた。


 「……空が好きなの?」


 思わず声をかけていた。華にとって、誰かと自然に言葉を交わすことは特別なことではない。けれど、鯉住が何を見ているのか、どうしても気になったのだ。


 鯉住はゆっくりと顔を向ける。黒い瞳が、初めて真正面から華を映した。

 

 「……ええ。空を見ていると、考えが整理されるんです」声は淡々としているが、そこに偽りは感じられなかった。


 華は小さく頷き、微笑む。「分かる気がするわ。私も、窓の外を眺めていると落ち着くもの」

 

 「……そうですか」鯉住は短く答える。その表情は変わらない。けれどわずかに、瞳の奥が揺れたように見えた。


 二人の間に沈黙が落ちる。だがそれは重苦しいものではなかった。教室に差し込む夕陽と、遠くで響く部活の掛け声が、静かな間を埋めていた。


 「鯉住くん」

 

 「はい」

 

 「転校してきて、困っていることはない?」華の声は柔らかかった。気遣うようでいて、押し付けがましさはない。

 

 鯉住は少しだけ考え、首を振った。「特には。……ただ」

 

 「ただ?」

 

 「皆が同じ方向を見ているのが、不思議だと思うことはあります。」

 

 「同じ方向?」

 

 「勉強とか、部活とか。決まった流れに沿って進んでいく。それが自然なのかもしれませんけど……」言葉を切り、再び窓の外を見やる。

 

 「私は、空ばかり見てしまう。」


 その一言に、華は少し笑った。「いいんじゃないかしら。誰もが同じ方向を向いていたら、つまらないもの。」

 

 「……そうでしょうか」


 「ええ。貴方みたいな人がいるから、世界は退屈にならないのよ。」


 鯉住はしばらく彼女を見つめた。華の笑顔は穏やかで、偽りがなかった。やがて彼は小さく頷いた。

 「……ありがとうございます」


 その声には、初めてほんのわずかな温度が宿っていた。夕陽はさらに赤みを増し、教室の窓を染めていく。二人の影は長く伸び、机の上で重なり合った。


――――――翌日の昼休み――――――

 教室は弁当の包みを広げる音と、賑やかな声で満ちていた。廊下からは購買帰りの生徒たちの足音が絶え間なく響き、春の陽射しが窓越しに差し込んでいる。


 芹川華は自席で弁当箱を開いていた。淡い色のクロスの上に整えられた小さな和食弁当。家の人が用意したものだが、派手さよりも丁寧さが際立っていた。華は箸をとり、口に運ぶたびに小さく微笑む。周囲の友人たちも自然に集まり、軽やかな会話が弾んでいく。


 「……芹川さん。」


 ふいに名前を呼ぶ声。振り返ると、廊下側に立っていたのは隣のクラスの男子だった。頬を赤らめ、ぎこちなく手を握りしめている。


 「少し、いいかな。」


 空気が一瞬だけ張り詰める。華は箸を置き、柔らかく首を傾げた。

 「ごめんなさい。今はお昼だから……放課後にしましょう?」

 

 「……う、うん!」


 男子は慌てて去っていく。その背中を見送りながら、周囲から小さなざわめきが上がった。

 「また告白?」

 「二日に一回はあるよね、ほんと」

 声は誂うでもなく、むしろ驚嘆の色を帯びていた。


 華は苦笑を浮かべ、肩をすくめる。「困っちゃうのよね。ちゃんと断ってるのに。」


 そのやり取りを少し離れた席から見ていたのは鯉住悌一だった。彼は弁当を広げることもなく、窓際の席で外を眺めている。空に浮かぶ雲を凝視するその横顔は、周囲の喧噪から切り離されたようだった。


 華は迷った末に、立ち上がって彼の席へ向かった。

 「鯉住くん、お昼は食べないの?」呼びかけると、彼はゆっくりと視線をこちらへ戻す。

 

 「食欲がないわけじゃありません。ただ……空を見ていたら、時間が経ってしまって」

 

 「ふふ、やっぱり空なのね」

 

 「ええ。雲の形が刻々と変わるのが、どうしても気になってしまって」


 彼の声音は相変わらず淡々としている。だが昨日よりもわずかに柔らかい響きがあった。


 華は席の前に立ったまま、微笑んだ。

 「よかったら、一緒に食べる?」

 

 「……いいんですか」

 

 「もちろん」


 机を少し動かし、彼の前に腰を下ろす。周囲の友人たちが驚いたように目を丸くしたが、華は気にしなかった。


 鯉住は鞄から簡素な弁当を取り出した。白いご飯と卵焼き、少しの漬物だけ。手慣れた様子で箸を動かす。

 「自分で作ったの?」

 

 「ええ。家にいたときからの習慣です。」

 

 「すごいわね。私なんて、家の人に頼りきり」

 

 「頼れる人がいるのは、悪いことではないと思います。」


 淡々とした答えに、華はくすりと笑った。「鯉住くんって、時々大人みたいなこと言うのね」

 

 「そうでしょうか。ただ……見ている場所が、少し違うだけかもしれません」

 

 「違う場所?」

 

 「皆が目の前を見ているときに、私は空や遠くを見ている。そんな癖があるんです。」


 彼の視線は再び窓の外へ向かう。青空に浮かぶ雲が、風に流されてゆるやかに形を変えていた。


 華はその横顔を見つめ、静かに頷いた。

 「でも、それって素敵なことだと思う。違う場所を見ている人がいなかったら、気づけない景色もあるもの。」

 

 「……そう言ってもらえると、少し救われます。」


 昼休みのざわめきの中、二人だけが穏やかな時間を共有していた。

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