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第二十話仮寓章第一節

番外編としてもし秦孚が特攻に成功し死んでいたらという話です。仮寓章と名付けました。

 蓬殿。御機嫌いかがでしょうか。


 この手紙を取る頃、私は既に出撃の準備を終えていることでしょう。短く、しかし尽きぬ思いを綴ります。先の夜、春吉が戦闘機に乗って特攻に出ると知り、その運命を思い、私は悩み抜いた末に決意いたしました。彼の若い命を奪わせまいと、私が代わりに行くと申し出たのです。生来の臆病さを悔い、これが最後の覚悟であることを貴殿に伝えねばなりません。


 貴殿と過ごした日々、畑の匂い、故郷の空、すべてが私の支えでありました。それらの記憶を携えて、私は飛び立ちます。どうか、私を責めないでください。私はただ、あの一瞬のために生きてきた――そう胸に言い聞かせて行くのです。茜殿には重ねて詫びてください。鉄治郎を護り得なかったこと、その無念は私の胸に深く刻まれております。姉君の悲しみを和らげる言葉を、私の代わりにかけていただければと願います。


 もし私が戻らぬときは、どうか悲嘆に暮れすぎぬよう。貴殿が畑を守り、日々を紡いでいくことこそ、私の唯一の望みです。そして最後に一つ、お願いがあります。私の遺品、手紙、そして守りきれなかった言葉は、私ではない他の誰かに託してください。貴殿が信頼する人物――茜殿であれ、あるいはご両親や隣組の頼れる者であれ、どうか私の思いを託し、彼らの手で整理していただきたく存じます。私の名は消えても、貴殿の生が続くことを切に願っております。


 短い文で申し訳ございません。最後まで読んでくださったこと、心より感謝いたします。どうか御身を大切に。貴殿の幸福をいつまでも祈りつつ、これを結びといたします。


 ――秦孚 拝


 1945年7月25日未明。鹿屋飛行場の空気は異様に張りつめていた。秦孚は、すでに腹の底で静かな決意を固めていた。前夜、病床にある春吉が特攻に選ばれたと告げられ、代わりに自分が行くと申し出た瞬間から、その運命は変わらなかった。彼の若い命を散らせるよりも、自分の命で償うべきだ。秦孚の胸には、その一念しか残っていなかった。


 夜明けと同時に、飛行場の格納庫から零式艦上戦闘機五二型が引き出される。機体の光沢は薄れ、硝煙と油にまみれたその姿は戦局の逼迫を物語っていた。胴体下部に括りつけられた二五〇kg爆弾が、彼の行き先を無言で告げる。出撃命令は「御盾隊一次流星隊」。護衛には、一人だけ、中佐の搭乗する零戦がつけられることになった。


 春吉はまだ歩けぬ身で病院に収容されていた。しかし秦孚の出撃を知ると、居ても立ってもいられず窓を開け、遠く滑走路を見つめて叫んだ。

 

 「一色さん!帰ってきてください!」その声は届いたのか届かなかったのか。秦孚は振り返らず、ただ背筋を伸ばしてコクピットに収まった。整備兵が主脚を押さえ、プロペラが甲高い轟音を上げる。飛行帽を引き締め、最後の一瞬に備える秦孚の横顔は、すでに人ならぬ覚悟を宿していた。


 護衛機に乗る中佐は、三つ年上の先輩だった。かつて鹿屋で同じ飛行隊に所属し、訓練でも作戦でも幾度となく背中を預け合った仲である。出撃前、中佐は秦孚の肩を叩き、小さく「お前の思いは、俺が見届ける」と囁いた。その短い言葉が、秦孚にとって唯一の餞別となった。


 零戦五二型は午前の柔らかな光を受け、次々に滑走路を蹴った。やがて秦孚と中佐の二機も、舞い上がる砂塵の中から勢いよく飛び立ち、南西の空へと進路を取った。眼下には鹿児島の山並みが流れ、遠く錦江湾が青く輝く。操縦桿を握る秦孚の指は震えていなかった。ただ重苦しい静けさだけが胸に広がっていた。


 飛行から一時間ほど。無線からは沈黙が続く。だが、互いに言葉を必要とすることはなかった。中佐は僚機として寄り添い、秦孚もまた淡々と高度と速度を保ち続ける。やがて視界の端に、沖縄方面からの煙と雲が帯のように広がるのが見えてきた。敵艦隊がそこにいるのだと直感する。あと二十分もすれば、必ず接敵する。


 しかし、運命は容赦なく二人の間を裂いた。突如、僚機の中佐の零戦がぐらりと揺れ、右翼下方から燃料が白煙を吹き出す。燃料タンクが滑落したのだ。中佐の声が無線に飛ぶ。

 「大尉……すまん、俺はここまでだ!」

 その声は苦渋と怒りに満ちていたが、どうすることもできなかった。片翼を振り、機体を翻して北へと戻る中佐の姿が小さくなる。秦孚は無言でそれを見送り、やがて視線を前方へ戻した。


 たった一機。空の広がりは同じでも、孤独は圧し掛かる鉄のように重かった。護衛を失った瞬間、秦孚は改めて己の役目を悟った。もう誰も共に行く者はいない。自分一人で、この零戦一機で、敵艦隊へと突き進むしかなかった。


 風防の外には、果てしなく広がる空と海。高度を調整しながら、秦孚は胸の奥に沈めてきた思いを一つずつ反芻する。蓬の笑顔、鉄治郎の声、茜の涙、そして春吉の叫び。そのすべてが、今まさに翼を押し上げる力に変わっていった。


 計器の針が揺れる。高度五千。進路は南西。接敵まで二十分―――一色はひとり、死の方角へと真直ぐに飛び続けた。


 1945年7月25日午前。沖縄の東方海域に近づくにつれ、秦孚の胸に冷たい緊張が広がっていった。護衛の中佐が燃料タンクを失い帰還したことで、今や秦孚はただ一機、孤独なまま敵艦隊に挑むこととなった。無線は沈黙しており、彼の周囲にあるのはただ無限に続く青い海と、時折揺らめく雲の塊だけであった。


 計器を確認しながら、秦孚は進路を保ち続けた。高度は千五百。燃料計の針は安定している。速度もまだ余裕がある。だが、それ以上に彼の思考は鋭く研ぎ澄まされていた。いま自分が担うのは、この零戦に括りつけられた二五〇キロ爆弾と機体もろとも、敵の心臓部に突き刺すこと――それだけである。


 やがて、遥か前方に灰色の影が浮かび始めた。最初は水平線の延長のように見えたが、すぐにそれが連なる艦影だと分かった。数十隻に及ぶ艦隊が、規則正しく円陣を組んで航行している。中央には飛行甲板の長いシルエット――空母。周囲を護衛する駆逐艦や巡洋艦の姿も見える。その陣形は乱れなく、正確無比に整えられていた。まるで一つの巨大な要塞のように、海を滑る。


 秦孚は息を深く吸い込んだ。すでにここから先は、敵の網の中である。彼は高度をぐんと落とし、海面近くに機体を滑らせた。水面の飛沫が風圧で尾翼を叩くほど低く、零戦はまるで魚雷のように海をなぞりながら進む。敵の警戒網に入るのは時間の問題だった。


 次の瞬間、耳を劈く轟音が空気を切り裂いた。艦隊の外縁から、対空砲火が吐き出されたのだ。5インチ両用砲の砲声が遠く響き、続いて連射式のボフォース40mm機銃、さらにエリコン20mm機銃の音が重なり合っていく。目に見える煙は次第に多くなっていった。だが、弾丸の風切り音が機体をかすめ、空気の流れが乱れる。秦孚は操縦桿を押し込み、海面すれすれで左右に振る。


 零戦の応答性はまだ生きていた。海面を鏡のように映す陽光の中、機体はまるで波間を泳ぐように左右へと揺れ、至近弾を避けて進んだ。秦孚の全身は汗で濡れていた。だが、その目は冴え冴えと澄んでいた。砲弾が炸裂する振動が腹に響き、背後の水柱が轟音と共に上がる。振り返る余裕はない。


 さらに突き進むと、左翼が小さく揺れた。瞬間、機体の片翼から煙が吹き出した。40mm弾の至近弾が翼をかすめたのだ。機体はわずかに傾き、振動が操縦桿を通じて腕に伝わる。秦孚は強く唇を噛んだ。だが、墜ちるほどではない。まだ飛べる。彼は煙を気にも留めず、操縦桿を押さえ込んで再び低空で突き進んだ。


 敵艦隊の陣形は近づくほどに巨大さを増した。目の前には一隻の空母が、まるで城壁のように立ち塞がっていた。だが秦孚はその艦を狙わなかった。さらに奥に、もう一隻の空母の姿を見つけた。表面に光を反射させる飛行甲板。その下腹、鋼鉄の腹側が狙える位置にあった。秦孚の視線はそこに釘付けとなる。


 「――そこだ」


 心の中で低く呟いた瞬間、彼は機体をわずかに持ち上げた。零戦は波打ち際を離れ、ふっと宙に浮かぶ。次の刹那、滑空するように角度を変え、鋭く奥の空母を目指して突き進んだ。操縦桿を握る手には力がこもる。計器の針が振れ、速度計が限界を示す。だが、もう止まらない。


 不思議なことに、その瞬間から砲声は耳に入らなくなった。音は遠のき、ただ風のうねりだけが鼓膜を打つ。弾丸は飛んでいる。だが、どれも当たらなかった。奇跡のように機体を掠め、海に消えていく。秦孚の心臓の鼓動が、自分の耳にだけ響いていた。


 息を呑む。肺が焼けつくように痛い。だが視線は逸れない。空母の巨大な姿が、眼前に迫り、さらに大きくなる。鋼鉄の塊が、まるで口を開けて待ち受けているかのように迫ってくる。


 煙を吐く零戦は、それでも力強く前進し続けた。秦孚は歯を食いしばり、操縦桿を胸元へと引き寄せる。滑空軌道は鋭く、狙い澄ましたように空母の腹部へと突き進んでいった。


 その刹那――世界から音が消えた。


 砲声も、風の唸りも、機体の振動も、すべてが消え失せた。秦孚の視界には、ただ一点、鋼鉄の巨躯しか映っていない。


 その後に何が起こったのか。空母に命中したのか、爆発を巻き起こしたのか、あるいは海に消えたのか――誰一人として知る者はいなかった。


 ただ、海の上には一瞬の静寂が訪れ、やがて再び轟音と煙が渦巻いた。秦孚の姿を見た者も、彼の行く末を語れる者も、そこにはいなかったのである。

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