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第二十話最終章

 秦孚の家は、もはや家とは呼べぬほどに傷んでいた。柱は曲がり、屋根は半ば落ちかけて、雨の日には容赦なく滴が床を濡らした。だが三畳ほどの部屋を辛うじて使えたので、そこでひとり暮らした。


 軍から渡された百円という大金があった。だが秦孚はそれを使う気にはなれなかった。手を伸ばせば、米でも布でも買える。だが自分ひとりが潤うことへの後ろめたさ、あるいは生きることそのものへの迷いが、金を封筒ごと押しとどめていた。


 昼近く、またいつものように布団に寝転がっていた。天井の隙間から差す光が、かつての青空を思い出させるようで、かえって心を重くした。


 その時、戸口を叩く音がした。ゆっくりと体を起こし、ふすまを開ける。そこに立っていたのは蓬だった。


 「秦孚様……」彼女の声は弱く、それでいてはっきりと彼を呼んでいた。驚きと安堵が入り混じるように、秦孚は言葉を失い、ただ蓬の姿を見つめ返した。


 「お姉ちゃんが……少し、話したいことがあるって。」その声には、ただの伝言以上の重さが含まれていた。秦孚はわずかに眉を動かし、しかし返事をする前にもう一つの言葉が落とされた。

 

 「……私からも、あるの。」それを聞いた瞬間、秦孚は胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。茜からの罵声を浴びた日の記憶が、鮮やかによみがえる。怒りと悲しみが入り混じり、涙で震える声。あの光景は今もなお心に突き刺さっている。


 「そうか……」と短く答え、秦孚は覚悟を決めた。再びあの痛烈な言葉に晒されるかもしれない。それでも背を向けることはできなかった。彼はゆっくりと立ち上がり、蓬の後に続いた。


 家の前に立ち、深く息を吸い込む。戸を開けると、懐かしくも重苦しい空気が迎え入れる。秦孚は無言で敷居を跨ぎ、もう一度、あの姉妹と向き合う覚悟を胸に抱いた。


 「お入りなさい。」母親にそう促され、秦孚は再び蓬の家に足を踏み入れた。畳の香りと共に漂う緊張感は、まるで長年の澱が淀んでいるようだった。座敷に通されると、茜が正座して待っていた。以前のような怒りに満ちた瞳ではなく、憔悴と決意が入り混じった目をしていた。


 茜は口を開いた。震える声だったが、一言一言を丁寧に選ぶように。

 「……秦孚さん、この前は酷いことを言ってしまいました。あなたにぶつけるべきではないと分かっていながら、心のやり場がなくて……。鉄治郎を失った悲しみを、全部あなたに向けてしまった。本当に……申し訳ありませんでした。」その言葉に、秦孚は思わず息を呑んだ。頬を紅潮させ、深々と頭を下げる茜。その姿は、怒声を浴びせてきたときよりもはるかに痛々しかった。秦孚が返答に迷っていると、蓬と母親も同時に頭を下げた。

 

 「茜を止められずに、ごめんなさい……。」母の声は静かでありながら、重みがあった。


 秦孚は戸惑いながらも、そっと蓬の方を見た。その視線に気づいた蓬は、少しだけ微笑み、やわらかい声で告げた。

 「秦孚様、どうか……鉄治郎さんに手を合わせてください。」


 導かれるように仏壇の前に座る。そこには遺影として鉄治郎の写真が置かれ、その隣にはかつて共に笑い合った頃の秦孚自身の写真も飾られていた。線香の煙がゆらゆらと揺れるなか、秦孚は深く手を合わせ、静かに瞼を閉じた。唇が震え、堪え切れず一筋の涙が頬を伝った。心の中で繰り返し詫びる。――守れなかった。共に生き延びられなかった。


 しばしの沈黙のあと、蓬が再び言葉を紡いだ。

 「秦孚様……私、やっぱり……結婚したいのです。」


 その声は、今までにないほどはっきりとしていた。戦争が奪った時間も、涙に塗れた日々もすべて飲み込んだうえでの覚悟。秦孚は驚きに目を見開き、すぐには言葉が出なかった。


 庭先からは蝉の鳴き声が響いていた。戦争が終わった夏の音。蓬の願いは、その音に重なるように秦孚の胸へ深く沈んでいった。


 「……蓬さんや、鈴家のみなさんも……よいのですか?」


 秦孚は、深く頭を下げたまま震える声で問いかけた。問いかけというよりも、祈りにも似た心の叫びであった。戦争がすべてを奪い去ったこの世にあって、自分がまだ人並みの幸福を求めてよいのか――それを確かめずにはいられなかったのだ。


 しばしの沈黙ののち、母が口を開いた。

 「……よいのです。あなたも、蓬も、あまりに多くを耐えてきました。戦争は人の命を、心を、無慈悲に削り取るばかりでした。けれど、こうして生き延びたのにはきっと意味がある。未来をつなぐために、生かされたのでしょう。」


 その言葉には、長い年月を生き抜いた者だけが持つ静かな力が宿っていた。


 蓬は、畳に膝をつき、秦孚の正面に座った。

 「私も、母も、そしてお姉ちゃんも。……みんな同じ気持ちです。もう、戦争に心を支配されるのは終わりにしたいのです。だから……秦孚様と、共に歩みたい。」


 蓬の視線は真っすぐで、揺らぎはなかった。


 茜はその横でうつむきながらも、震える声を絞り出した。

 「……私は、鉄治郎を失ったことで、心のすべてが壊れてしまった。だから、あなたにひどいことを言った。けれど……妹が幸せになるのを、今度こそ邪魔はしない。私も……少しずつ前に進みたい。」


 茜の言葉は重く、しかし確かな響きを持っていた。秦孚は彼女を見つめ、深く一礼した。茜が流した涙は、悲しみだけでなく、ようやく妹の未来を受け入れる決意の証でもあった。


 ――その瞬間、長い戦争の影がようやく後退していくように思えた。


 夜、縁側に出ると、涼やかな風が吹いていた。焼け残った町の向こうには、かつてと同じように月が昇り、星々が瞬いていた。秦孚は蓬の隣に腰を下ろし、深く息を吐いた。


 「私は、もう夢も希望も失った人間だと思っていた。……だが、違ったようだ。君と共にある未来を、まだ望んでいる自分がいる。」


 蓬は静かに頷いた。

 「その望みこそが……生きている証ではありませんか。」


 しばらく二人は、言葉を交わさずに空を見上げた。そこには、戦時中に見た薄煙に覆われた空ではなく、幼い日々に夢見た澄み切った夜空が広がっていた。


――――――翌朝――――――

 鈴家の人々と共に仏壇の前に座った。鉄治郎の遺影に手を合わせながら、秦孚は心の中で誓った。――自分が生き延びた意味を、決して無駄にはしない、と。鉄治郎が命を賭して護ろうとしたこの国に、そして残された家族に、せめて少しでも安らぎをもたらしたいと。


 その後、母も茜も蓬も、皆が一様に笑みを見せた。涙を浮かべながらの笑みであったが、それは確かに「未来」へ続く笑顔だった。


 戦争が奪ったものはあまりに大きい。命、青春、夢、そして愛する人々との日々。しかし――それでもなお奪われずに残ったものがある。それは、人を想う心であり、繋ごうとする意思である。やがて時は流れても、この夜交わした誓いは消えはしないだろう。秦孚と蓬が共に歩むその道は、鉄治郎や失われた幾千の命の上に築かれた道であり、その一歩一歩が、未来へと灯をともすものとなる。


 ――戦争は人々を深く傷つけた。けれど、その爪痕を抱えながらも、なお生きる者がいる限り、希望の炎は消えない。


 二人の物語は、絶望の淵からすくい上げられた小さな「未来への灯」として、静かに、そして確かに結末を迎えた。

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