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第二十話第十一章

 春吉は特攻の出撃命令を受けながらも、敵艦に突入する直前での損傷と救出によって、奇跡的に命を拾った。その姿を見た秦孚は、胸を締めつけられるような思いに襲われた。自らは春吉の代わりに出撃し、特攻を果たせず生き残った。だが春吉は、運命の糸に掬い上げられるように帰還したのだ。


 その矛盾に向き合うことは苦しく、そして重かった。特攻に失敗した者は、どのように生きるべきなのか。軍人としての誇りは既に傷つき、心の奥には深い断罪の声が響き続けていた。秦孚は意を決し、みずから飛行隊員を辞すことを申し出た。もはや空に出撃する資格はないと。


 辞表を受け取った上官は何も言わなかった。ただ黙って頷き、処理を進めた。それが却って秦孚の胸に突き刺さった。叱責よりも重い沈黙。彼は再び空に立つことなく、地上勤務へと身を移した。


 その後の日々、秦孚は何度も空を仰ぎ見た。幼き頃、夢見て憧れた空は、どこまでも澄み渡り、透き通るような青をたたえていたはずだった。だが今の空は、煙に濁り、燃える街の煤が漂い、どんなに晴れ渡っても霞がかかったようにしか見えない。夜空に輝く月でさえ、ぼんやりとした輪郭しか持たなくなっていた。


 「もう一度、あの青空を……」秦孚は心の中でそう繰り返した。戦の影が覆う以前の、少年の眼に映った鮮烈な蒼穹を、ただもう一度だけ見てみたい――それが彼の願いとなった。


 1945年8月3日、秦孚は江田島に向かった。海軍兵学校の正門をくぐったとき、かつての活気は既に失われていた。整然と並ぶはずの候補生たちの声は小さく、教場に立つ教官の数も目に見えて減っていた。軍人でありながら教員でもあった者たちは、次々に戦地に駆り出され、あるいはすでに帰らぬ人となっていたのだ。


 秦孚は、講堂の隅に立ちながら、かつて自分が学生であった頃を思い出していた。朗々と響く号令、黒板に刻まれる航空学の理論、訓練場にこだまする掛け声。そのすべてが今は遠い過去の幻のようで、そこに残るのは人の減った空席ばかりだった。


 「人手が足りぬ。君のような者にこそ助けてもらいたい。」老いた教員がそう言った。秦孚は応えることもできず、ただ黙って頭を下げた。もはや自分には空を教える資格はない――その思いが心を縛っていた。


 江田島での短い滞在を終えると、秦孚は呉の海軍療養所へと移された。そこでは、身体を壊した将兵や戦傷を負った者たちが、静かに横たわっていた。傷痍軍人たちの呻き声と、時折聞こえる看護婦の小走りな足音だけが、病棟の時間を刻んでいた。


 8月6日の朝、秦孚は食堂で朝食を口にしていた。茶色いご飯に漬物、薄い味噌汁。それでも温かい食事は貴重であり、兵たちは黙々と箸を動かしていた。


 ――その瞬間だった。


 雷鳴のような轟音が、空から落ちてきた。


 「……っ!」


 咄嗟に顔を上げたとき、窓の外は一瞬にして白光に包まれていた。目を焼くような閃光、全身を突き抜ける衝撃。直後、轟音を上回るような圧風が押し寄せ、療養所の窓ガラスが一斉に砕け散った。食堂にいた者たちは床に投げ出され、悲鳴があちこちで響いた。


 秦孚も椅子ごと吹き飛ばされ、頭を打ちながら床に倒れ込んだ。耳鳴りで音はほとんど消え、視界は揺らめく光で塗りつぶされていた。


 「……今のは、何だ……」立ち上がると、窓の外の空に、巨大なきのこ雲が立ち上がっているのが見えた。灰色の煙が渦を巻きながら天へ昇り、地平線を覆い尽くしていた。


 慌ただしく駆け寄ってきた軍医に問いかけても、答えはなかった。誰もが状況を理解できず、ただ呆然と空を見上げるしかなかった。あの光と衝撃が何を意味するのか、誰一人として説明できなかったのだ。


 療養所の一室に戻った秦孚は、しばらく窓辺に立ち尽くした。空は再び灰色に染まり、太陽の光さえ鈍く霞んでいた。遠くで火の手が上がっているのが見えたが、その正体を知る者はいなかった。


 そして、8月10日。秦孚は故郷・高知への帰還を命じられた。輸送の手は途絶えがちで、ようやく辿り着いた故郷は、三年半ぶりの地であった。


 列車を乗り継ぎ、ようやく高知駅に降り立ったとき、夏の空気は重く湿り、どこかよそよそしい匂いがした。幼き日から見上げたはずの空は、やはり霞がかかったように濁っていた。


 「……ただいま」


 誰に告げるでもなく、秦孚は小さく呟いた。だがその声は、駅前に広がる雑踏にかき消されていった。


 彼はまだ、蓬や茜たちに顔を合わせることはなかった。戦いを終えられぬまま生き残った自分が、どのような顔で彼らの前に立てるというのか――その答えを、秦孚は見つけられずにいた。


 ただ一つ確かなのは、もう一度あの青空を見たいという願いだけだった。しかしそれは、この国がまだ戦の影に覆われている限り、決して叶わぬ夢のまま、秦孚の胸に重く沈んでいた。


 高知に戻って小さな療養所で過ごした。


――――――数日が経った頃


 秦孚はついに蓬と茜に会う決心をした。二十六歳になった秦孚は、軍服ではなく粗末な民間の服を身にまとい、蓬の家を訪ねた。蓬もまた二十四歳になり、少女の面影を残しながらも、長い戦争の年月に鍛えられた静かな強さをその瞳に宿していた。


 戸口を開けて迎えてくれたのは蓬であった。驚きと喜びが入り混じった顔で、「秦孚様……」と呟いた。その声を聞き、秦孚は胸が熱くなるのを抑えきれなかった。だが、その温かな空気は、次の瞬間に鋭く打ち砕かれた。


 「なんで……なんで死んでこなかったんですか!」突如として、奥から飛び出してきた茜が、声を張り上げた。顔は涙に濡れ、目は怒りに燃えている。秦孚が一歩も動けずにいると、彼女はさらに詰め寄った。


 「鉄治郎は帰ってこなかったのに……どうしてあなたは生きているんですか! なんで……なんで……!」その言葉は刃のように鋭く、秦孚の胸を切り裂いた。彼は必死に頭を下げた。


 「…………私には、どう言葉を尽くせばよいか……」声は震え、喉が締め付けられるようだった。命を落とした仲間の顔が次々と脳裏に浮かぶ。鉄治郎の、最後に見た背中。茜の涙は、そのすべてを責め立てるかのようであった。


 「謝って済むと思っているんですか!あの人はもう帰ってこないんですよ!それなのに、あなたは……!」


 茜の叫びは止まらない。蓬が慌てて彼女の肩を抱き、「お姉ちゃん、やめて……!」と声をかけるが、茜は首を振り振り続ける。


 「いや……いやよ! 私は認めない!この人が生きていることを……」蓬の瞳にも涙が浮かんでいた。妹を必死に抑えようとするその姿が、秦孚の心をさらに締めつける。自分はここにいてはいけない――その思いが、体を重く縛りつけた。


 秦孚は再び深く頭を下げ、絞り出すように言った。


 「本当に……申し訳ない。茜殿、蓬殿……私は、生き延びるべきではなかったのかもしれぬ……」そのまま言葉を飲み込み、しばし沈黙が流れた。やがて秦孚はゆっくりと立ち上がった。蓬の必死な「待ってください」という声を背に受けながら、彼は無言で戸口を出た。


 外に出ると、夕暮れの空は薄い紫に染まり、遠くで虫の声が響いていた。その静けさが、家の中で交わされた激しい言葉をかえって重く思い出させた。


 秦孚はただ俯き、足を前へと進めた。胸の奥には謝罪の言葉すらも追いつかぬ深い痛みが渦巻いていた。再会の場は、喜びではなく、茜の怒りと涙に染められ、彼の心をさらに沈ませるものとなったのである。


 秦孚はあの日以来、毎日のように蓬の家を訪れた。どうにかして、蓬と茜に再び会わせてもらいたい――その一心で足を運んだが、家の戸口で立ち尽くすことがほとんどだった。


 茜は顔を出そうとしなかったし、蓬の母も険しい眼差しで「今は会わないでほしい」と冷たく告げるばかりだった。秦孚は頭を下げ、謝罪を繰り返し、それでも諦めずに日を重ねた。


 そして八月十五日――。昼頃、村の家々から人々が一斉にラジオの前に集まり、陛下からの「重大放送」を聞いた。秦孚も療養先の小さな集会所で耳を傾けたが、雑音と慣れぬ言葉に満ちた声は、途中から何を仰っているのかほとんど分からなかった。ただひとつ、はっきりと胸に突き刺さったものがあった。


 ――我が国は負けたのだ。


 血の気が引くのを覚えた。あれほどの犠牲、仲間の命、流れた血と汗……それらすべての果てが「敗北」であると、天皇自らの声で突きつけられたのだ。肩の力が抜け、膝が笑うような感覚に襲われた。


 それからも秦孚は変わらず蓬の家へ足を運んだ。だが茜は姿を見せず、蓬の母も門を閉ざした。日を追うごとに、秦孚は胸の奥に孤独を積み重ねていった。


 八月二十五日の夕方、その日もまた門前に立つと、珍しく家の中から男の足音が近づいてきた。戸口を開けたのは、蓬と茜の父であった。


 「君が……秦孚君だね」


 年の頃は五十に届こうとしているだろう。背筋はまだ真っ直ぐで、黒ずんだ作業服に油の染みが浮かんでいた。名を鈴忠一という。戦時中は呉の海軍兵器工場で勤務し、航空機部品の整備や生産に携わっていた男である。


 「は、はい。ご無沙汰しております……」秦孚は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。


 忠一はしばらく彼を見つめ、重々しく言った。

 「毎日のように来ているそうだな。だが、茜はまだ気持ちの整理がつかん。母親も、無理に会わせたくはないと言っている」


 「……重々、承知しております。それでも……せめて一言、蓬さんと茜さんに……」声はかすれ、言葉は途中で詰まった。忠一はしばらく黙し、やがて溜息をひとつついた。


 「君の気持ちは分かる。しかし、女たちの怒りや悲しみは簡単に収まるものではない。……私だって、工場で仲間を送り出してきた。完成した部品が載った飛行機が、片道の燃料しか積まぬと知りながら、無言で作業を続けねばならなかった。君が背負ってきたものも分かる。だが、生きて戻った者には戻った者の責めを受けねばならん。」


 忠一の声は怒気を含むものではなかった。むしろ、長年の疲れが滲み出るような、静かな諦念を帯びていた。


 秦孚は俯き、拳を握りしめた。

 「……はい。おっしゃる通りです。私は、生き残ってしまいました。そのことで責めを受けるなら、甘んじて受けます。ただ、それでも……蓬さんと、茜さんに……」必死に言葉を絞り出す秦孚に、忠一はしばらく目を細め、やがて口を開いた。


 「……時が経てば、会うこともできよう。だが急いてはならん。今日のところは、これで帰りなさい」


 その言葉に秦孚はただ深く頭を下げるしかなかった。夕暮れの風が頬を撫で、夏の終わりを告げる虫の声が遠くに響いていた。彼は重い足を一歩ずつ運びながら、心の奥でただひとつ願った。


 ――どうか、あの空の下で、再び三人で言葉を交わせる日が訪れますように。


 門を離れようとしたその時、秦孚はふと足を止め、振り返った。手にしていた封筒を両手で差し出す。中には軍から支給された手当百円が収められていた。当時としては一家の暮らしをしばらく支えるには余りある大金であった。


 「これを……どうか、蓬さんや茜さんのために」声を震わせながら差し出す秦孚に、忠一はじっと視線を落とした。だが次の瞬間、彼は首を横に振り、封筒を押し返した。


 「その金を渡されるほど、私たちは落ちぶれちゃいない。……君自身のために取っておきなさい」


 その言葉には静かな誇りと拒絶が込められていた。秦孚は言い募ることもできず、封筒を胸に抱きしめるようにして深々と頭を下げ、再び歩き出した。夕暮れの道に長く伸びた影は、どこか頼りなく揺れていた。


 秦孚は昔ながらの、しかし荒れ果てた自分の家に戻っていた。戸口を開けると土の匂いがむっと立ちこめ、かつての温もりは影すら残っていない。そこに父の姿はなかった。徴兵され、サイパン島で戦死したと記録にある。小学校の頃からの学友・義男もまた、同じ島で命を落としたと風の便りに聞いた。


 仏壇に線香をあげ、両手を合わせる。そこには父母、そして友の魂が並んでいる気がした。母は戦争とは直接関わらず、しかし戦争に追われるようにして去った。栄養失調で倒れ、1943年にはもうこの世を離れていた。秦孚の目の前に残っているのは、虚ろな家と、失われた人々の記憶だけだった。


 「……私には、もう何も残っていない」そう呟き、ひたすらに仏壇の前で頭を下げた。夢も希望も、かつて心を燃やした空さえ、いまは色を失い灰に覆われているようだった。


 翌日もまた、誰かが誰かを探し、また別の誰かが誰かを待ち続けている。

 ――そんな戦後の日々だった。人の声がするたびに、名前を呼ぶたびに、答える者のいない現実がひどく突き刺さった。

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