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第二十話第十章

 鹿屋への帰路、彼は春吉の陸攻がまだ飛んでいるのを確認した。大破した機体から黒煙がたなびいているが、翼はしっかりと水平を保っていた。その執念に、秦孚は心の奥で祈るように呟いた。


 「持ちこたえろ、春吉……」


 夕刻、鹿屋飛行場。秦孚は着陸後すぐに機体を降り、春吉の陸攻の帰還を見守った。満身創痍の機体が地面にすべり込み、軋む音を立てて止まる。救護兵が駆け寄る中、秦孚は走り寄った。


 機内から引きずり出された春吉は、全身を血に染めていた。肩も胸も脚も銃弾に貫かれ、軍服は破れ、息は浅い。それでも彼は目を開き、秦孚の顔を認めた。


 「……大尉殿……」声はかすれ、今にも消え入りそうだった。秦孚は膝をつき、彼の手を握った。その手は冷たく震えていた。


 「春吉、よくやった……お前のおかげで空母を沈められた。」春吉は苦しげに微笑んだ。唇がわずかに動き、掠れた声が漏れた。


 「……死にたくない、と……言った……夜のことを……覚えて、おられますか……」秦孚は力強く頷いた。


 「忘れるものか。」春吉の目に、一筋の涙が光った。


 「……本当は、今も……死にたくは……ないのです……でも……少しだけ……誇りを……持てました。」その言葉とともに、春吉の瞼はゆっくりと閉じられていった。医療班が懸命に担架を運び出すが、秦孚はただその場に立ち尽くしていた。


 勝利の報がもたらされたはずの飛行場に、沈黙が重く垂れ込めていた。敵空母を沈めても、秦孚の胸は喜びではなく、深い痛みに満たされていた。彼が護ったのは命ではなく、ただ死にゆく仲間の時間だったのか――その思いが、心に重くのしかかっていた。


 その夜、秦孚は机に向かい、何度も何度も書きかけては手紙を破った。春吉の言葉が耳から離れなかった。「死にたくない」という叫びが、夜の海の波音と重なり、彼の胸を締めつけ続けた。


 1945年7月25日――鹿屋の空は、夏の盛りの熱気に満ちていた。戦局はすでに誰の目にも明らかであり、敗戦の影は濃く垂れ込めていた。それでも、命令は変わらず降りてくる。秦孚はその朝、出撃命令を受けた。御盾隊一次流星隊としての特攻であった。


 本来、その編成には春吉の名があった。数日前、一式陸攻の機銃手として血に染まった姿を見たばかりの彼が、今度は戦闘機に搭乗し、自ら特攻兵となることが決まっていた。だが秦孚は、どうしてもそれを許せなかった。春吉の「死にたくない」という言葉が耳に残って離れなかったからだ。


 「次は自分が行く」


 秦孚は上官に直訴した。春吉の分まで、自分が命を差し出すと。既に衰弱し、目の下に濃い隈を作っていた彼の姿に、誰も強くは反論できなかった。こうして秦孚は零戦五二型に搭乗し、わずか一機の護衛機を伴って出撃することになった。


 夜明け前の薄明の中、飛行場は静かだった。整備兵たちは黙々と最終点検を行い、誰一人として声を荒げることはなかった。誰もが知っていた。この出撃は「帰らぬ旅」であることを。


 「秦孚大尉、御武運を」


 整備兵の敬礼を受け、秦孚は無言で頷いた。胸の奥に重い塊を抱えながら、零戦のコクピットに収まる。エンジンが唸りを上げ、プロペラが回転し、滑走路に砂埃が舞った。


 やがて機体は地面を離れ、夏空へと舞い上がった。護衛の一機と並んで南西へ向かう。目的地は沖縄の海、敵艦隊の只中。そこに機体を叩きつけるのが任務だった。


 雲間を抜けながら飛び続けること二百キロ。沖縄まであと半分を残すかという地点で、突如、機体が異様な震えを見せた。


 「……なんだ?」


 計器が震え、油圧が下がっていく。やがてエンジンから黒煙が上がり、燃料計が急激に落ち込んだ。燃料系統に穴が開いたか、あるいはエンジンそのものが故障したのだ。機体は急速に力を失い、プロペラの回転も弱まっていった。


 護衛機の僚機から無線が入る。


 「大尉、煙が出ています!このままでは……」


 秦孚は唇を噛んだ。このままでは特攻どころか、沖縄に辿り着くことすらできない。だが、ここで引き返すということは――「死ぬべき役目」を果たせないことを意味する。


 「まだ行ける……」


 必死に自分を鼓舞した。だが、その瞬間、無線機から飛行隊長である中佐の声が鋭く飛んできた。


 「一色大尉、引き返せ!」


 秦孚はそれでも、なお機首を沖縄へ向けようとした。だが、今度は護衛機から必死の合図が送られてきた。翼を振り、手振りでも示している。


 「大尉、もう限界です!戻ってください!」


 エンジンの回転はもはや断続的にしか続かず、ついにプロペラは完全に止まった。機体は滑空状態へと移り、秦孚は深い吐息を漏らした。


 「……分かった。」


 決して納得したわけではなかった。だが、どうあがいてもこの機体では敵艦に辿り着けない。彼は機首を北へと戻した。


 滑空での帰還は容易ではない。鹿屋まで持たせるには高度も距離も足りない。秦孚は地図を睨み、帰還可能な地点を探った。やがて視界の下方に、緑に囲まれた牧場地が見えた。


 「ここしかない……!」


 操縦桿を握り直し、必死に姿勢を整える。機体は重く、風を切る音だけが耳を叩いた。心臓は激しく脈打ち、手のひらは汗で滑る。失敗すれば、そのまま地面に突き刺さって終わりだ。


 地上が迫る。草地が揺れ、牛が驚いて散っていくのが見えた。最後の力を振り絞り、操縦桿を引いた。


 ――衝撃。


 機体が地面に叩きつけられ、脚が折れ、胴体が激しく揺さぶられる。翼端が牧草地を掠めながら、零戦は泥を巻き上げ、ようやく停止した。


 秦孚はしばらく呼吸ができなかった。機体の中で全身が痺れる。耳鳴りが止まず、視界が揺れる。それでも、どうにかしてハッチを押し開け、這い出した。


 草の匂いと土の匂いが鼻を突いた。青空はあまりにも眩しく、彼は両膝をつき、ただ地面に手をついた。


 「……私は、何をしているんだ」


 本来なら敵艦の甲板で果てていたはずの自分が、今こうして牧場の草の上に座り込んでいる。生かされたのか、それとも任務を果たせずに生き残ってしまったのか――答えは分からなかった。


 遠くで牛の鳴き声が聞こえ、農夫たちが駆け寄ってくる気配があった。秦孚は顔を上げることができなかった。ただ、風に揺れる牧草を見つめ、胸の奥に重苦しい空洞を抱えながら、沈黙していた。


 その後、彼は軍の救護班によって回収された。命は助かった。しかし、秦孚の心の奥に残ったものは、ただ一つ――「果たせなかった死」と、「逃れられた生」との狭間で揺れ続ける深い迷いであった。


 鹿屋の空は、変わらず夏の光を照り返していた。だが秦孚にとってその光は、決して明るいものではなく、ただ痛烈に心を刺すまぶしさでしかなかった。

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