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第二十話第八章

だが三年が経つにつれ、便りの内容は次第に弱々しい色を帯びていった。


―――


 蓬殿。御機嫌いかがでしょうか。

 鹿屋にての務めも三年が過ぎ、今は若い学生たちの指導にあたっております。彼らは皆、志を抱いておりますが、戦況の厳しさを思うと胸が痛みます。

 どうか宿毛の畑は無事であってほしい。貴殿とご両親の健康を案じてやみません。

 

 一色


―――


 秦孚様。

 こちらは毎日、畑に出ておりますが、肥料も少なく収穫は思うようにいきません。街も少しずつ暗く、賑わいが減ってまいりました。電車も本数が減り、灯火管制で夜は真っ暗です。

 それでも父母と力を合わせ、なんとか食を繋いでおります。どうか御身もお大事に。戦争の話を聞くたび、胸が締め付けられます。どうか無事でいてください。

 

 蓬


―――


 蓬殿。

 貴殿の手紙を読むたび、宿毛の空と畑を思い出します。訓練場の空を仰ぐと、あの港で交わした約束が甦り、私は立ち上がることができます。

 だが戦況は思わしくありません。敵の艦隊は増え、空も広く制されております。訓練に送り出す学生の多くが帰らぬ現実を、どう伝えてよいのか分からぬこともあります。

 ただ一つ言えるのは、貴殿の存在が私を支え続けているということです。どうか、心を強く持ってほしい。

 

 一色


―――


 秦孚様。

 ご無事でいることが何より嬉しく思います。けれど、こちらの暮らしは日に日に厳しくなっております。畑に出ても種も肥料も乏しく、収穫はわずか。市場も品が減り、人々の顔には疲れが見えます。

 それでも私は待ちます。港で見送ったあの日の気持ちを、忘れたことはありません。どうかいつか、無事に戻ってきてください。

 

 蓬


―――


 蓬からの便りは、一通ごとに言葉が細り、弱さを帯びていった。だがその奥には、なお消えぬ強い意思が宿っていた。秦孚は手紙を胸にしまい、空を仰いだ。戦局は暗く、希望は遠い。だが彼の心を繋ぎ止めるのは、故郷から届く一枚の便りと、そこで待つ蓬の存在に他ならなかった。


 夜の鹿屋。窓の外に月が浮かぶ。秦孚は筆をとり、次の便りの冒頭にそっと書き記した。


 「蓬殿。御機嫌いかがでしょうか――」


 戦火に覆われた世でも、その一筆に込める想いだけは変わることがなかった。


―――

 秦孚様。


 御無事であると知り、心より安堵いたしました。けれど、どうしても胸に留めておけぬことがあり、筆を執ります。


 思い返せば三年前――1941年のはじめの頃でした。宿毛湾の沖を、今まで見たこともないような大きな戦艦が航行していったのです。従来の艦よりもはるかに横幅が広く、黒々とした船影は山のように重々しく、海を押し分けるように進んでおりました。あの光景は、村の誰もが息を呑み、子供たちは歓声をあげて見送ったものです。私もその場に立ち、あまりの迫力に胸が高鳴りました。


 しかし今、その時の記憶を思い返すと、とても素直に喜ぶことはできません。あの巨大な艦も、やがて戦場に赴き、多くの命を載せたまま海へと消えていったのではないか――そう思うと、誇らしさよりも恐れの方が胸を占めます。あの時に抱いた感嘆が、今では苦い悔恨のように心に残っているのです。


 秦孚様、どうか御身を大切に。私にできることは畑を耕し、家を守りながらただ無事を祈ることだけです。遠い空の下で筆を取るたび、あの黒々とした艦影が脳裏に浮かびます。どうか、あのような影に呑み込まれることなく、必ず生きて帰ってきてください。


 蓬

―――

 

 1944年10月中旬。秦孚は戦闘機の操縦桿を握り、ただ敵機を撃ち落とすことに全身を費やしていた。秋の空は既に戦火で濁り、帰投するたびに仲間の姿が一人、また一人と消えていった。それでも秦孚は任務を果たし続けた。


 ある日、飛行場に戻ると、司令部からの報せが待っていた。鉄治郎――幼き頃からの友であり、義兄でもある男が、敵艦に果敢に突入したまま帰還せず、未帰還機として扱われたのだ。


 その一報を受けた瞬間、秦孚は胸を深く抉られる思いだった。何度も共に夢を語り合い、励まし合ってきた鉄治郎。その声がもう聞けぬのかと考えると、目の前の景色が遠のくようだった。しかし秦孚以上に悲しみに沈んだのは、茜だった。夫を失った彼女は、声を押し殺して泣き続け、やがて力尽きたように座り込んだ。


 その傍らには、妹の蓬が寄り添っていた。茜の手を握り、背を撫でながら「姉さま……どうか、気を強く持って」と涙声で言葉をかける。だが慰めの言葉など、深い喪失の穴を埋めることはできない。ただ共に涙を流し、沈黙の中で姉を支えるしかなかった。


 秦孚はその光景を遠くから見つめ、言葉を失っていた。戦はなお続く。しかし守りたいものは、こうしてひとつひとつ奪われていくのだと、彼は改めて思い知らされた。


 1945年。戦局は日に日に悪化し、秦孚の体も心もすり減っていった。頬はげっそりと削げ落ち、目には常に疲労と陰が宿り、まるで鬱病患者のように光を失っていた。かつては鋭く空を見据えていた視線も、今はただ遠い地平を彷徨うばかりであった。


 ある日、鹿屋飛行場に顔を出すと、そこにはかつて自分が訓練を教えていた若き航空学生たちがいた。彼らは、かつての秦孚の姿を追いかけるように真っ直ぐな眼差しを持っていた。だが、その未来は既に決められている。彼らは「特別攻撃隊」として選ばれ、死を命じられた者たちだったのだ。その事実が胸を締め付け、秦孚は吐き気に似た感覚を覚えた。彼の眼には彼らの顔が眩しく映る一方、背後に死の影が覆い被さっているように見えて仕方なかった。


 その頃から、蓬への手紙を書くこともほとんどなくなった。書こうとしても言葉が出ず、筆を持つ手は空中で止まり続けた。伝えたいことは山ほどあるのに、いざ紙に向かえば、どんな言葉も虚しく感じられる。やがて便りは途絶えがちになり、家族は遠い彼の沈黙をただ不安と共に受け止めるしかなかった。


 それでも最後の力を振り絞り、秦孚は一通だけ手紙を書いた。震える筆跡で、彼はこう記した。


――茜殿へ。


 まずもって、心よりお詫び申し上げます。鉄治郎を守ることができなかった。それは私の力の及ばぬところでありました。戦は人の情を顧みず、ただ命を呑み込んでゆく。彼の勇敢なる行いを讃えるべきだと分かってはおりますが、同時に残された貴殿の悲嘆を思うと、筆を執る手が震えて止まりませぬ。どうか、この私を恨んでください。どれほどの言葉を並べても償えはいたしませんが、せめて最後に、深く頭を垂れる思いをここに記します。


―― 

 続けて、蓬への言葉が綴られた。


――蓬殿へ。


 御機嫌いかがでしょうか。これまで幾度か筆を取りましたが、言葉が虚しく散るばかりで、満足に綴ることができませなんだ。今回もまた、心許なき文となりましょうが、どうかお許しください。


 もし私が帰らぬこととなった時は、どうか心を痛めすぎぬよう願います。貴殿と語らい、共に過ごした日々は、私にとって生涯の宝であります。畑の緑も故郷の山河も、貴殿の笑顔も、幾度となく思い出し、その度に胸を支えられて参りました。


 しかしながら、戦局は日に日に逼迫し、我らが命もまた風前の灯火にございます。若き者たちが特攻に赴く姿を見るたび、心は千々に乱れます。私もまた、遠からずその一人となりましょう。それでもなお、願うはただ一つ――貴殿が生き残り、自由に、そして強く歩んでゆかれること。


 もし空の彼方で私を思い出すことがあれば、それだけでよい。涙に暮れることなく、前を向いていただきたい。それが私の最後の望みでございます。


 筆は震え、言葉も尽きました。これ以上はもう記すことも適わぬかと存じます。願わくば、貴殿と茜殿、そしてご家族が御身健やかに、長く日々を生き抜かれんことを。


 ――秦孚 拝


 最後の一文は、掠れた文字で書かれていた。


 ――戦火は、すぐそこまで迫っている。私の命もまた、長くはないだろう。それでも、どうか君たちが生き残ることを願う。


 この手紙が届いたとき、蓬は無言でしばらくそれを握りしめ、やがて茜のもとへ届けた。茜は文字を追うごとに嗚咽をこらえきれず、蓬は姉の肩を抱き締めてただ共に涙を流した。


 秦孚の影は、すでに遠ざかりつつあった。だが彼の最後の願いと謝罪は、確かに家族の胸に刻まれ、消えることはなかった。

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