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第二十話第六章

――――――数日後――――――


 その手紙は宿毛の蓬のもとに届いた。農作業を終えた夕刻、彼女は縁側に腰掛け、封を切った。

 「……中尉に、なったのか。」


 紙面に踊る文字を追ううち、胸の奥にじんわりと誇らしさが広がる。秦孚が遠い横須賀で励んでいる、その確かさが心を満たした。蓬はそっと便箋を胸に当て、夕暮れの空を仰いだ。

 

 「秦孚様……どうかご無事で」その小さな祈りは、暮れゆく四国の山々に吸い込まれていった。


 秦孚は扶桑型戦艦「山城」に乗艦していた。戦闘機に乗ることはまだ叶わず、飛行の現場には立てなかったが、つべこべ言う暇もなく日々の任務をこなしていた。横須賀に停泊する山城での勤務は規則正しく、そして重責に満ちていたが、秦孚はその任務を全身で受け止めた。艦内での動き、上官への報告、砲術や通信の手順――一つひとつが、将来の自分にとって欠かせぬ学びであった。


 そんな日々の中で、秦孚は少しずつ自らの進むべき道を考え始めていた。戦艦勤務の安定と確実さも魅力的ではあったが、空を駆ける夢を抱く心は決して消えてはいなかった。彼はある決意を胸に固めた――飛行学生として一から学ぶ覚悟を決めることだった。


 その思いを、久しぶりに鉄治郎に伝えることにした。鉄治郎はまだ少尉で、練習艦「香取」に乗り込み、日々の訓練に励んでいるという。無線を通して交わされる言葉の端々に、互いの近況や思いが滲む。秦孚は言った。

 

 「鉄、私は飛行学生に志願することにした。もう一度、空ですべてを学ぶつもりだ。」

 

 「そうか、秦。ついに決心したんだな。香取でもまだまだ厳しいが、空を目指すお前なら必ずやり遂げられる。」鉄治郎の声には、励ましと信頼が混じっていた。それを聞いた秦孚は、胸の奥で小さく炎が灯るのを感じた。


 横須賀の風に吹かれながら、秦孚はこれから始まる飛行学生としての日々を思い描いた。地上での知識を積み重ね、空へと羽ばたくための訓練に身を委ねる日々。新たな挑戦への期待と、不安を胸に秘めつつも、確かな覚悟を抱いていたのである。


 1938年、秦孚は飛行学生としての訓練を始めてからちょうど二年が経過し、ついに航空士官として任官した。飛行技術や戦術判断力を磨き上げ、艦上や陸上での多岐にわたる訓練を経て、彼は航空特務大尉として正式に任務に就くことになったのだ。


 任官後も秦孚は日々の飛行任務に追われる日々であった。模擬空戦や偵察飛行、戦術爆撃や捜索救難任務など、実戦さながらの訓練は一切手を抜けない。だが、二年間の訓練で培った経験と技術が彼を支え、操縦桿を握る手には確固たる自信が宿っていた。空に立つとき、彼は己の判断力と責任の重さをひしひしと感じつつも、冷静に任務を遂行することができた。


 秦孚は任務の合間を縫い、蓬や両親へ毎月手紙を送っていた。手紙には任務での出来事や訓練の進捗、空から見た景色、そして日々変わらぬ想いが綴られた。彼女たちから届く便りは、忙しい日常の中で心を温め、任務に向かう力となった。また、鉄治郎には三か月に一度の頻度で手紙を送り、互いの訓練報告や近況を交換し合った。遠く離れた場所で同じ志を持つ友との連絡は、秦孚にとって何よりの励ましであった。


 航空特務大尉となった秦孚は、艦隊や基地の上官からも一目置かれる存在となった。新人航空士官や部下の指導にもあたるようになり、後進を育てる責務も担った。彼は自らが培った経験と知識を惜しみなく伝え、部下たちに航空任務の重要性と緊張感、そして正確さの大切さを教えた。


 空を駆ける秦孚の視界には、いつも故郷宿毛の山々や蓬の笑顔が浮かんでいた。どんなに遠くの海域へ赴いても、その思いが彼の心の支えとなり、任務を遂行する力となったのである。こうして秦孚は、航空特務大尉として空に立ち、技術と判断力を駆使しながら、故郷と家族、そして友への思いを胸に、任務の日々を送っていた。


―――――――――――――――――― 


 時は流れ、茜と鉄治郎の婚約は無事に結婚として正式に挙げられる運びとなった。祝いの日の前後、蓬とともに高知へ帰郷した秦孚は、久しぶりに目にする故郷の変化に息を飲んだ。畑は整備され、かつての小道には街灯が立ち並び、電車やバスの便も随分と整っていた。田舎町だった宿毛とはまた違う、活気ある街の姿に胸が高鳴った。


 まず秦孚は両親に挨拶を兼ねて訪れた。久しぶりに会う父母の顔には、穏やかさと喜びが混じっていた。蓬も目を細め、父母の前で自然に笑顔を見せる。秦孚もまた、任務に追われる日々の間に忘れかけていた安心感と温もりを胸に抱いた。両親は二人の成長を喜び、日々の暮らしを案じながらも、こうして再会できたことに感謝していた。


 その後、秦孚と蓬は鉄治郎と茜とともに和服を見に行くことになった。商店街の一角にある老舗の呉服店には、光沢のある生地や繊細な刺繍が並べられていた。茜は緋色の振袖を前に目を輝かせ、鉄治郎も真剣な表情で選ぶ姿を見せる。蓬は静かにその光景を見守りながら、ふと秦孚に微笑みかけた。


 「秦孚さん、茜さんに似合いそうですね。」

 

 「そうだな、鉄治郎も嬉しそうにしている。」秦孚はそう応じ、心の中で二人の幸せを願った。茜の手に触れるたびに、鉄治郎の顔には自然な笑みが広がり、二人の間に流れる空気は柔らかで穏やかだった。


 和服を選び終えた後、四人は店先の広場に腰を下ろし、しばし談笑のひとときを過ごした。街の喧騒を背景に、遠くで電車が通り過ぎ、風に乗って花の香りが漂う。秦孚は目の前の情景に、かつて見上げた高知の空を思い浮かべた。あの頃と同じ空気を吸い、同じ風を感じている自分が、任務の海から戻ってきたのだという実感が胸に染み渡った。


 蓬は鉄治郎と茜を交互に見つめ、微笑みながら話しかける。

 「茜さん、振袖選びは楽しかったですか?」

 

 「ええ、とても。鉄治郎と一緒に選ぶことができて嬉しいです。」鉄治郎も頷き、蓬に礼を言った。

 

 「蓬殿も付き合ってくれてありがとう。おかげで迷わず決められた」


 秦孚は四人のやり取りを見守りながら、心の中でほのかな安堵を感じていた。戦場や任務の緊張感から一瞬解放され、ただ穏やかな日常に身を置くことの尊さを噛み締める。笑い声が風に乗り、街角の灯に反射して煌めく。その瞬間、秦孚はこれまでの道のりを思い返し、任務に追われた日々の意味を改めてかみしめた。


 会話の中で、蓬が少し真剣な顔で秦孚に言った。

 「秦孚さん、こうして皆で話せる時間、ずっと続けばいいのに。」

 

 「そうだな、蓬。いつまでも続くよう、俺たちは努力する。」秦孚はそう答え、目の前の光景を胸に刻む。鉄治郎と茜も静かに頷き、互いの幸せを確認し合うかのようだった。


 夕暮れ時、街灯の明かりがゆらめき始める。四人はその光の下で、今ここにいることの喜びを共有した。秦孚は心の奥で、再び空に立つ日を思い描きつつも、この穏やかなひとときを大切に胸に刻んだ。畑や街、家族と友人、そして蓬と鉄治郎と茜――すべてが彼の人生の支えとなり、今後の航海への力となることを確信したのである。

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