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第二十話第五章

 茜と鉄治郎の仲は、誰もが驚くほどの速さで進展した。広島での再会からわずか数か月、二人は自然と距離を詰め合い、やがて婚約という形にまで至ったのである。蓬も秦孚も、その報せを聞いたときには目を丸くしたが、同時に心からの祝福を贈った。鉄治郎にとって、戦いの海へ向かう前に支えてくれる伴侶を得たことは、何よりの力となったに違いなかった。


 一方の秦孚も、いよいよ訓練の場から実際の任務の舞台へと足を踏み出すときが来た。彼が配属されたのは川内型軽巡洋艦「神通」であった。瀬戸内海に根拠を置く第一艦隊第八戦隊に所属し、すでに数多の実績を重ねてきた艦だ。軍港に停泊する神通を初めて目にしたとき、秦孚はその鋭い艦首と堂々たる艦影に息を呑んだ。これから自分が乗り込み、職務を果たす舞台が、この巨大な艦そのものだという現実に、胸が熱くなるのを抑えられなかった。


 軽巡洋艦神通の任務は輸送護衛であった。豊後水道を抜け、台湾の基隆を経て、さらに南へ――海南島にまで至る大任である。秦孚にとって、祖国の海を離れ、はるか異国の中華の海へ向かうのは初めての経験だった。出航の朝、瀬戸内の柔らかな陽を浴びながら、彼は甲板に立ち、遠ざかる故郷の山影を見つめた。あの山の向こうに、蓬がいる。胸の奥に小さく灯る思いが、彼を前へ進ませていた。


 もっとも、少尉である秦孚にとって、初めから大きな責務が任されるわけではなかった。彼はまず艦内の生活に慣れ、上官の指導を受ける立場である。とりわけ砲術科を担当することになり、そこでお世話になるのが砲術長井坂少佐であった。四十に届こうかという年齢で、厳格な物腰と鋭い眼光を備え、兵たちからは一目置かれる人物だ。


 「一色、砲術将校は艦の目と腕だ。貴様のような若い少尉でも、責任は重いぞ。」

 井坂の言葉は重く響いた。その瞬間、秦孚はただ「はい!」と全身で答えるしかなかった。


 砲術長の下での日々は、厳しさと新鮮さの連続だった。主砲の装填・照準・発射の一連の動作はもちろん、命令伝達の速さや、敵艦を補足する際の判断の正確さも徹底して叩き込まれた。井坂は一色が少しでも動作を遅らせれば雷のように叱責したが、同時に手取り足取り実地で教えてくれる面倒見の良さもあった。


 「一色少尉、敵艦を撃つのは鉄の塊ではない。人の命だ。お前が放つ一弾に、どれだけの重みがあるかを忘れるな」その言葉は、秦孚の胸に深く刻まれた。


 艦内での生活は規則正しく、緊張感に満ちていた。起床のラッパとともに一日が始まり、甲板清掃、訓練、食事、また訓練と、息をつく暇もない。機関室の熱気、無線室の緊張、そして甲板を打つ潮風――そのすべてが、秦孚にとって新しい世界だった。


 輸送任務は、ただ物資を運ぶだけの単純なものではなかった。台湾の基隆では、膨大な物資の積み込みを監督し、現地の兵士や労働者との意思疎通も必要となる。さらに南下すれば、海南島の海域は不穏であり、時に中華側の小規模な船影が遠方に現れることもあった。砲を構えたまま睨み合い、緊張が走る瞬間もある。そのたびに井坂少佐の指示が飛び、秦孚は必死にそれを吸収し、行動に移した。


 「敵影、見失うな! 次の照準角を計算しろ!」

 

 「はい!」秦孚は双眼鏡を握りしめ、視界を泳ぐ波と影を凝視した。汗が首筋を流れる。砲員たちが息をひそめて命令を待ち、船全体が一つの生き物のように動いていた。


 任務の合間、艦内の士官室で秦孚と鉄治郎はよく顔を合わせた。鉄治郎は通信士官として配属されており、無線室で汗を流していた。

 

 「秦孚、ようやく任務らしい任務だな。演習とは違う緊張感がある」

 

 「本当にそうだ。失敗すれば多くの命が危うい。だが、それこそが我らの務めだ。」二人の会話は短いながらも重みがあった。互いに婚約者を持つ身となり、責任の大きさをひしひしと感じていたのだ。


 海南へ向かう航海の途中、秦孚は幾度も甲板に立ち、広大な海を眺めた。夜空には満天の星が広がり、波間に反射して揺らめく。遠い故郷を思い、蓬の笑顔を心に描く。彼女が畑で汗を流しながらも、自分を信じて待っている。その確信が、異国の海で戦う彼を強くした。


 「必ず戻る。必ずだ」彼は小さく呟いた。その声は潮風に溶け、南の海へと消えていった。


 こうして秦孚は、神通の一員として初めての任務を全うしながら、少尉としての責務を身に刻んでいった。井坂少佐の厳しい教え、鉄治郎との友情、そして蓬への想い。すべてが、彼を次なる航海へと鍛え上げていったのである。


 ある日のことだった。神通の狭い通路を歩いていた秦孚は、耳をつんざくような怒声を聞いた。何事かと足を止め、声の方へそっと忍び寄る。覗き込んだ先で目にしたのは、二等水兵が壁際に追い込まれ、何人かの兵に罵声を浴びせられている場面であった。その水兵は朝鮮の生まれで、日本海軍に志願して入った者だと秦孚は知っていた。慣れない言葉と振る舞いが、しばしば周囲の嘲笑を招いていたのだ。


 秦孚の胸に熱いものがこみ上げた。彼は躊躇わず通路へ踏み込み、鋭い声を張り上げた。

 「やめろ!」


 罵声を飛ばしていた兵たちは一斉に振り返った。その中で最も声高に叱りつけていたのは軍曹で、年も秦孚より上であり、海軍歴も長かった。しかし秦孚は怯まず、その眼を真っすぐに射抜いた。

 「階級を問わず、同じ艦に務める仲間だ。出自を理由に辱めるなど、軍人として恥ずべき行いだぞ!」


 軍曹は一瞬顔を歪めたが、秦孚の鋭さに気圧されたのか、やがて舌打ちして黙り込み、他の兵を連れて退いた。残された二等水兵は、震える肩を小さくすくめ、秦孚に深々と頭を下げた。


 「……助けていただき、ありがとうございます」

 

 「気にするな。お前は立派に務めている。それを忘れるな。」


 秦孚の言葉は硬いが温かかった。その場に居合わせた若い水兵たちは、彼の毅然とした態度を見て、互いに顔を見合わせた。艦内の空気が少し変わった瞬間だった。


 この出来事はやがて艦長・阿部孝壮大佐の耳にも届いた。呼び出された秦孚は、内心緊張していたが、阿部は厳しい面持ちの奥に確かな誇らしさを浮かべていた。

 

 「一色少尉。よくやった。艦はただの浮かべる城ではない。そこに乗る者すべてが心をひとつにしてこそ、海を渡れる。卑しき振る舞いを正す勇気、それもまた将校の務めだ。」


 阿部の言葉は秦孚の胸に深く響いた。叱責ではなく激励であることに、彼は大きな安堵と同時に責任の重みを噛み締めた。


 艦内の規律は再び正され、朝鮮出身の二等水兵も次第に居場所を得るようになっていった。その背後には、若き少尉のひと声があった。秦孚にとって、この出来事は単なる一場面ではなく、海軍将校としての在り方を学ぶ大きな転機となったのである。


 神通での任務を果たしたのち、秦孚の身に新たな命令が下った。1936年4月、彼は扶桑型戦艦「山城」に乗り組むこととなったのである。神通が第二水雷戦隊へ復帰する直前のことだった。


 山城は横須賀に在泊しており、秦孚はそこでの日々に身を投じた。空への憧れを胸に秘めつつも、戦闘機に乗る機会はいまだ訪れない。それでも「つべこべ言う暇はない」と自らを律し、戦艦での職務に全力を注いだ。巨大な艦の機関の唸り、規律正しい乗員の動き、そのどれもが秦孚の神経を張り詰めさせた。


 やがてその努力は実を結ぶ。赴任からほどなく、彼は中尉へと昇進を果たしたのである。神通での経験、そして井坂少佐に叩き込まれた砲術の心得が評価されたのだった。若くして階級を進めたことに、秦孚は大きな責任と期待を背負うこととなった。


 昇進の知らせを受けた夜、秦孚は士官室の片隅で筆をとった。思い浮かぶのは故郷・宿毛で暮らす蓬の姿である。便箋に向かい、静かに書き始めた。

 

 「蓬殿。御機嫌いかがでしょうか。私はこのたび山城に乗艦し、横須賀にて勤務しております。まだ空の道に立つことは叶いませぬが、日々の務めを怠らず励んでおります。そして先般、中尉へと昇進いたしました。これもひとえに皆の励ましあってのこと。殊に貴殿の存在が、常に私を支えてくれております。」


 言葉を綴りながら、蓬の笑顔が胸に浮かぶ。便箋の最後に「必ずや胸を張って帰郷できるよう励む」と添えて、丁寧に封をした。

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