第十一話最終章
「…應正くん、悪くないわね」
先輩の声が低く、少し緊張を帯びる。通常ならもっと厳しい言葉で叱るはずだが、今はその声が、どこか嫉妬と興味が混ざった響きになっている。私は少し肩の力を抜き、笑みを返す。
「ありがとうございます」
桃子が拍手をして、部員たちも続く。初めて、私の指揮で全員が呼吸を合わせた瞬間。孤独の練習で培った感覚が、形になったことを実感する。胸の奥が熱くなる。過去の挫折、ヴァイオリンで打ちのめされた日々、すべてがここにつながっている。
曲が終わり、タクトを下ろすと、静寂の中で部員たちが息を整える。桃子の目が輝き、先輩の瞳がわずかに細くなる。私の心の中に、確かな手応えが残った。
初めて指揮した日。孤独の練習の先に、仲間と響き合う音楽があった。そして、西宮先輩の嫉妬すら、私の成長を認める一片の証のように感じられたのだった。
部室の空気が少し落ち着きを取り戻す。私はタクトを下ろし、椅子に腰かけて深呼吸をする。胸の奥には、先ほどの心理戦で得た手応えが残っていた。孤独の練習で培った感覚が、ようやく部員たちに伝わったことを実感する。
その瞬間、桃子がにこにこと駆け寄ってきた。目の輝きは、先ほどよりさらに増している。
「應正くん、すっごくかっこよかったよ!」
私は思わず肩をすくめる。普段、褒められることに慣れていない私は、少し照れてしまう。桃子は私の肩に手を置き、ぐっと寄り添ってくる。
「ねえ、これで終わりなんてもったいない。もっと指揮してみてよ」
「もう、十分じゃないか…」と苦笑する私に、桃子はいたずらっぽく笑う。
「いやだ、まだまだ聞きたい!」手を絡めてくる桃子の距離感に、胸の奥がふわりと温かくなる。普段なら意識しないはずの体の感覚が、桃子の存在によって無意識に反応している。
「ふふ、やっぱりまんざらでもないでしょ?」
「…そ、そういうわけじゃ…」
口ごもる私に、桃子は満面の笑みを浮かべ、軽く私の顎を押して近づく。耳元で囁くように言う。
「應正くんが嬉しそうなの、私にはわかるんだから」
私は顔が熱くなる。桃子の一方的な甘えに押されつつも、心の奥で少し喜んでいる自分を否定できない。孤独な練習の日々で得た自信が、こうして誰かの笑顔とぶつかる瞬間、温かい感覚に変わる。
そのとき、西宮先輩が部室の入り口に立った。目にした光景は、私と桃子の距離の近さ、肩を寄せ合う二人の姿。先ほどの心理戦での指揮は終わったはずなのに、先輩の視線は釘付けだ。
「……な、なんであんなに…」
小さく呟いた先輩の声には、桃子と私のイチャイチャに向けられた嫉妬の色が滲む。しかし、そのまま黙っていることはできないらしい。先輩は一歩前に踏み出すと、私の隣にすっと立つ。
「應正くん、今度は私と一緒に…肩貸してもらえる?」私は一瞬戸惑う。桃子は一歩押しのけるようにして、肩に頭を乗せながら笑う。
「なになに、今度は西宮先輩も来るの? ふふ、私だって負けないよ?」
三人の距離が自然と縮まる。桃子は私の腕に絡みつき、先輩は私の隣に寄り添い、少し肩を触れるようにして存在を主張する。私は二人の温度と視線に挟まれ、思わず息を飲む。
桃子が小声で囁く。「應正くん、私のことも見てよ?」
西宮先輩はすかさず、少し挑発的に言う。「私だって、應正くんの腕の中に入りたいんだから」
私の心臓が跳ねる。二人の距離感、甘える力、そして無言の競り合い。孤独な練習で得た自信と手応えが、こんな形で試されるとは思わなかった。
「…ど、どうしよう…」
私は小さく呟くが、二人の視線は逃さない。桃子は頭を肩に押し付け、先輩は腕を私の背中に回す。二人とも負けじと距離を縮め、笑顔や視線で私の反応を楽しんでいる。
私は少しだけ笑みを返す。まんざらでもない自分に気づきながら、二人の甘えを受け止める。三角関係のような微妙なバランスの中で、心は温かく、そして軽く高鳴る。
部室には、桃子の甘え、西宮先輩の積極的な嫉妬と愛情、私の微妙なまんざらでもない反応が混ざり合い、独特の空気が漂う。孤独から始まった音楽の旅が、仲間との関わり、甘いひととき、そして三角関係の微妙な緊張を通して、私を再び音楽と人との繋がりへと導いているのを感じる。
「ふふ、應正くん、今日はいっぱい褒めてあげるからね」
桃子が再び肩に頭を寄せ、笑みを浮かべる。その横で、西宮先輩も小さく微笑み、私に軽く触れるように肩を寄せる。私は両方の温もりを胸に感じながら、心の奥で新しい楽しさを実感する。音楽と人の関係、そしてこの複雑な三角関係が、これからの私の世界を確かに広げていく――そんな予感がした。




