第二十話第四章
演習の声が遠くから響いてくる。すぐにまた厳しい日々が始まるだろう。しかし秦孚は机から立ち上がり、力強い足取りで扉を開けた。彼を支えているのは、故郷からの絆にほかならなかった。
広島湾に面した海軍演習地での日々は、規律と緊張に満ちていた。兵学校を卒業して間もない秦孚は、容赦なく課せられる鍛錬の中で、自分を一段と鍛え直していった。そんな環境で心強い友となったのが、同じ少尉候補生の鈴木鉄治郎であった。
鉄治郎は東北の農村出身で、質実剛健、飾り気のない男だった。初めは互いに簡単な挨拶を交わす程度だったが、訓練の厳しさを共に耐えるうちに、自然と固い友情が芽生えていった。秦孚は兵学校時代、首席に次ぐ六位で卒業し「恩賜の軍刀」を賜ったほどの成績だった。そのため、館内の作法や上官への態度において、鉄治郎から頼られることも多かった。
「秦孚、お前の敬礼はいつもぴたりと決まっているな。どうすれば、あんなに自然にできるんだ」
「鉄治郎、姿勢の軸を意識するんだ。腕だけでやるからぎこちなくなる。全身で、心から敬う気持ちを込めるといい」
そんなやり取りを重ねるうちに、鉄治郎は徐々に所作を整えていった。秦孚もまた、友に教えることで己の学びを確かめ、さらなる自信を深めることができた。鉄治郎のひたむきさと明朗な性格は、秦孚にとって大きな励ましでもあった。
一か月に一度の郵便の日が来た。候補生たちは皆、紙と筆を前にして故郷への想いを綴った。秦孚は机に腰を下ろし、静かに墨を含ませる。真っ先に思い浮かぶのは、宿毛で待つ蓬の姿であった。彼は深呼吸し、筆を走らせた。
―――
蓬へ。
広島に来てからの日々は、まさに試練の連続だ。館内の案内は徹底され、食堂では号令とともに一斉に着席し、一糸乱れぬ所作が求められる。寝具の整頓も少しでも歪めばやり直しを命じられ、上官への態度は一瞬の気の緩みさえ許されない。
だが、私には頼もしい友ができた。鈴木鉄治郎という、東北の出身の候補生だ。飾り気はないが、真剣に学ぼうとする姿勢は見習うべきものがある。私は兵学校での学びと、恩賜の軍刀を賜ったこともあり、自然と彼に教える機会が増えた。敬礼の角度、歩き方、上官への返答の仕方――細かな作法を共に磨く中で、互いに信頼を深めつつある。
鉄治郎と語り合う時間は、厳しい日々の中で心を和ませてくれる。彼もまた故郷を思い、家族を案じている。その姿に触れると、私も蓬のことをより強く想うのだ。
叱責され、心が折れそうになるときもある。しかし、蓬が「待ちます」と言ってくれたあの言葉を思い返すと、不思議と力が湧いてくる。お前の笑顔が、遠いこの地で私を支えているのだ。
畑仕事は順調だろうか。どうか無理をせず、体を大切に。私もまた、次の休暇で必ず会いに戻る。そのときを心待ちにしている。
一色より。
―――
筆を置いた秦孚は、静かに息を吐いた。封を閉じるとき、彼は蓬の笑顔を思い描き、心を引き締めた。鉄治郎と共に過ごす演習の日々、厳格な規律の下での鍛錬、そして遠い宿毛で自分を待つ人々――それらすべてが彼を強くし、士官としての道を照らしていた。
郵便の日、宿毛の村にも秦孚からの手紙が届いた。蓬は畑仕事を終えて家に戻ると、母から「秦孚さんからだよ」と封を渡され、急いで部屋に駆け込んだ。白い封を開ける指先が震える。便箋に並んだ整った文字を目で追うと、広島での演習の日々が鮮やかに浮かび上がった。厳しい館内の規律、上官からの叱責、それでも折れぬ心。彼の声が紙越しに響いてくるようで、蓬の胸はじんと熱くなった。
「秦孚様……がんばりゆうがやね。」思わず声が漏れた。彼が自分のことを想い、遠い演習地で励んでいる。そのことが何よりも嬉しかった。港で交わした約束を大事にしてくれているのだと知り、胸の奥がじんわりと温かくなる。
蓬は机に座り直し、返事を書くことにした。
―――
一色様へ。
手紙を読んで、とても心強く思いました。広島での演習は大変そうですが、決して弱音を吐かないあなたの姿を想像すると、私も負けていられません。畑の仕事も変わらず続いています。季節は巡り、もう稲の穂も色づき始めています。
私の願いは一つです。いつか宿毛に帰ってきてくれるときは、ぜひ鈴木鉄治郎さんも一緒に連れてきてください。あなたが信頼できる友だと書いてくれた方に、私も会ってみたいのです。秦孚さんの隣で笑っている友の姿を見れば、きっと安心できると思います。
どうか体を大事に。次の手紙を待っています。
鈴より。
―――
書き終えると、蓬は便箋を封じ、両手でそっと押さえた。彼の誠実な言葉に応えるように、自分も素直な願いを込めた。遠く広島で汗を流す秦孚へ、この小さな手紙が届くことを祈りながら。
半年が過ぎた。広島での厳しい演習を乗り越え、秦孚はついに少尉に任ぜられた。同じ候補生として共に汗を流してきた鈴木鉄治郎もまた、無事に少尉となり、二人は晴れて同じ肩章をつける仲間となった。兵学校での時代から互いに助け合い、切磋琢磨してきた友情は、すでに信頼という固い絆に変わっていた。
演習期間も終わりに近づくと、彼らには艦内勤務が待っていた。その前に二週間という準備期間が設けられ、広島軍港内での移動や市街地への外出も許されるようになったという知らせが届いた。軍服に身を包みながらも、これまでとは違う自由の風が胸を駆け抜ける。
その知らせを耳にした蓬は、心を決めた。これまで手紙だけで思いを繋いできたが、どうしても今、広島へ行きたい。直接顔を見て、声を聞きたい。その思いに背中を押され、彼女は幼馴染の茜を誘った。旅費のやり繰りは決して楽ではなかったが、二人はなんとかして広島の地に辿り着いた。
軍港の町は活気にあふれ、行き交う人々の服装や話し声からも大きな都市の息吹が伝わってくる。宿毛の静かな港とは違うざわめきに蓬は目を丸くしたが、それ以上に胸を高鳴らせていたのは、これから孚と会えるという事実であった。
待ち合わせ場所に現れたのは、紺色の軍服に身を固めた秦孚だった。肩には少尉の階級章が輝き、背筋はこれまで以上に真っ直ぐ伸びている。蓬は思わず立ち尽くし、その姿に見入ってしまった。
「蓬!」秦孚が笑みを浮かべて駆け寄る。その声に蓬はようやく我に返り、緊張と喜びの入り混じった声で応えた。
「秦孚さん……!」
二人が再会を喜ぶその横に、もう一人の軍服姿が並んだ。秦孚が紹介する。
「こちらは鈴木鉄治郎。兵学校からの同期で、ずっと助け合ってきた友だ」
鉄治郎はきびきびと敬礼し、そして柔らかな笑みを見せた。
「初めまして。鈴木鉄治郎と申します。秦孚と共に、これから同じ艦で働くことになりそうです」
その礼儀正しい態度に、蓬も茜も頭を下げた。特に茜は一瞬で頬を赤らめ、思わず目を伏せた。彼女の視線の先には、軍帽をしっかりとかぶ凛々しい姿勢を崩さない鉄治郎の姿があった。
「茜です。蓬の……姉で」
声がわずかに震えた。鉄治郎はその小さな変化を感じ取ったのか、にこりと微笑んで「よろしくお願いします」と丁寧に応じた。その瞬間、茜の頬はさらに赤く染まった。
蓬は二人の様子に気づき、思わず口元を緩めた。秦孚と再会できた喜びに加え、茜が新しい縁を得たような気がして、心が温かくなったのだ。
四人は連れ立って市街地へと歩いた。道の両側には軍人相手の食堂や商店が並び、華やかな看板や人の声で賑わっている。秦孚と鉄治郎は軍港のことや演習中の出来事を語り、蓬と茜はその話を興味深そうに聞いた。
「鉄治郎は兵学校のときから成績優秀でな。私が困ったとき、何度も助けてくれたんだ」
秦孚がそう言うと、鉄治郎は苦笑しながら首を振った。
「いや、秦孚の方こそ恩賜の軍刀を賜るほどの才覚だ。私はその背中を追っていただけだよ」
その言葉に、茜はますます目を輝かせて鉄治郎を見つめた。
やがて四人は川辺に腰を下ろし、遠くに停泊する軍艦を眺めた。夕陽が軍港を黄金色に染め、静かな波音が聞こえる。蓬は隣に座る孚をそっと見つめ、心の奥で「本当に立派になった」と思った。同時に、茜と鉄治郎がどことなく自然に言葉を交わしている姿に、未来の可能性を感じて微笑んだ。
短い再会のひとときではあったが、蓬にとっては忘れがたい時間となった。そして秦孚にとっても、大切な人を友に紹介できたことが何よりの喜びだった。軍帽をかぶり直し、鉄治郎と並び立つ姿を見て、蓬は改めて彼の強さと優しさを胸に刻んだ。
広島の街に灯がともり始める頃、四人はそれぞれに胸を高鳴らせながら歩き出した。再会の余韻と、新たな縁が生まれた予感を抱きつつ。




