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第二十話第三章

 海軍兵学校を卒業した一色は、真新しい制服に身を包み、幾度かの任務を経たのち、ようやく長い休暇を得て故郷・宿毛へ戻ってきた。汽車を降り、潮風が吹き込む湾を眺めると、少年の頃に夢を描いたあの光景が胸の奥でよみがえる。港にはまだ大きな軍艦は停泊していなかったが、波間に揺れる漁船や海鳥の声は、かつてと変わらぬ故郷の匂いを伝えていた。


 家に戻ると、両親は歳を重ねながらも健やかで、一色の帰郷を心から喜んだ。囲炉裏の火を囲んで再会を祝い、久しぶりの故郷の食事を口にしたとき、胸の奥に暖かいものが満ちていった。だが、その安堵は長くは続かない。数週間後には広島での海軍演習が控えていた。休暇は束の間であり、再び軍務に戻らなければならなかった。


 故郷に帰ってきた秦孚は、しばらくぶりに宿毛の空気を吸い込んだ。山と海に囲まれた町は、少年のころと変わらぬ景色を湛えている。潮の香りが強く、遠くで鷗の鳴き声が響いていた。海軍兵学校を卒業した一色は、短い休暇を与えられ、この町へ戻ってきたのだ。再び広島での演習が控えていたが、その前にどうしても会わねばならない人がいた。


 午後の光を浴びながら、彼は港へ足を向けた。そこは子供のころから慣れ親しんだ場所だった。堤防には小舟が並び、漁師たちが網を干している。秦孚は潮風に目を細め、故郷に戻った実感を噛み締めていた。


 そのとき、後ろから足音が近づいた。振り返ると、野良着に身を包んだ蓬が立っていた。十歳の少女だった蓬は、いまや十三歳を越え、十七歳であった。すらりと背が伸びている。額には汗が光り、腕には畑からの帰りに抱えてきた籠が下がっていた。


 「秦孚様……!」彼女は籠を下ろし、両手で裾を握りしめるようにして立ち止まった。その声には驚きと喜びと、少しの緊張が入り混じっていた。秦孚は一歩近づき、柔らかく微笑む。


 「蓬……約束を、果たしに来た。」その言葉に、蓬の瞳が大きく潤んだ。彼女はしばし視線を伏せ、やがて思い出したように港の方を指差した。


 「そういえば、秦孚様。三年前のことを、覚えていますか? 港に立っていたとき、大きな海軍の船が全速力で走っていったんです。あれは……忘れられません。」


 秦孚は静かに頷いた。ちょうど昭和七年、1932年のことだった。

「あれは重巡洋艦『愛宕』だ。新造されたばかりで、全速航行の試験を行っていた。一万トンを有に越える巨艦が、この海を全速で駆け抜ける姿は圧巻だったろう。」


 「はい……!波が高くなって、堤防にまで飛沫がかかりました。胸がどきどきして、息ができないくらい……あの時から秦孚様が海で仕事をすることを強く感じました。」


 蓬の頬は紅潮し、懐かしい記憶を抱きしめるように語った。秦孚もまた、その情景を鮮明に思い出す。白波を蹴立て、巨大な艦影が空を裂くように走り抜けたあの瞬間。少年のころ夢見た「海軍の船がこの湾を埋め尽くす日」を、垣間見た出来事でもあった。


 秦孚は蓬の目を見つめた。そこには幼さと同時に、確かな強さが宿っている。彼は深く息を吸い、言葉を選んで口を開いた。


 「蓬。お前が待っていてくれたこと、どれほど心の支えになったか知れない。私は海軍の道を歩むと決め、兵学校を卒業した。これからは広島での演習、そして艦へ乗り組む日々が始まる」


 蓬は小さく頷いた。けれどその瞳は揺れている。秦孚は真剣な眼差しで続けた。


 「だからこそ……今ここで、約束を果たしたい。蓬、私と婚約してくれないか。」蓬の瞳が大きく見開かれ、唇が震えた。


 「秦孚様……! 本当に……」


 「ただし、わかってほしい。これはいつ死ぬかもしれぬ仕事だ。艦が沈めば、命を失う。戦場に出れば、戻れないこともある。それでも……私を待っていてくれるだろうか。」


 蓬は両手を胸の前で握り、涙を溢れさせた。その頬を伝う雫は、港の光を受けて輝いた。


 「秦孚様……私は待ちます。何年でも、どれほど遠くても。たとえ一度も戻られなかったとしても、秦孚様がここで私を見て、そう言ってくれたことだけで……私は生きていけます。」


 その言葉に、秦孚の胸が熱くなった。彼は蓬の肩にそっと手を置き、まっすぐに見つめた。


 「ありがとう、蓬。お前の想いに報いるために、私は必ず強くなる。空を飛び、海を駆け抜け、国を守り抜く。その志を胸に……必ず戻ってくる」


 蓬は涙の中で笑った。幼い頃からの友であり、心を寄せる人と交わした約束は、潮風に溶けながらも、二人の胸に深く刻まれた。


 その日、宿毛の港は穏やかな光に包まれていた。三年前に全速で走り抜けた愛宕の記憶が、いま二人を繋ぐ証となっている。やがて秦孚は再び広島へ向かい、厳しい海軍の務めに戻るだろう。だが蓬は心からの笑顔で見送る。


 秦孚が歩む道は死と隣り合わせだ。だが同時に、蓬の信じる言葉が彼の力となり、夢を現実に変えていく。港に立つ二人の姿は、まるで大きな船出の前の祈りのようであった。


 広島湾に面した海軍の演習地に、秦孚は赴任していた。兵学校を卒業してから間もない日々。そこには、全国各地から集まった若い士官候補生が肩を並べ、厳格な規律のもとで訓練を積んでいた。朝はラッパの音とともに始まり、夜の消灯まで、一日の隅々にまで規律が浸透していた。


 館内ではまず、艦艇での生活を模した案内が続く。食堂の作法から寝具の整頓、廊下を歩く際の姿勢に至るまで、細かい規則が徹底的に叩き込まれた。廊下を横切る際、うっかり上官の進路を遮ろうものなら、雷のような叱責が飛んでくる。帽子の角度や敬礼の速度一つで、何度もやり直しを命じられる。秦孚もまた、数え切れぬほど「姿勢を正せ」と言われ、全身を緊張でこわばらせながら一つひとつ学んでいった。


 それでも、彼の胸の奥には燃えるものがあった。小さな港町で見上げた空、駆け抜ける艦の姿――あのとき抱いた夢が、現実の厳しさにさらされても揺らぐことはなかった。むしろ、厳格な日常の中でこそ、自分が本物の海軍士官になりつつあるのだと実感するのだった。


 一か月に一度、郵便を受け取れる日が巡ってきた。その日だけは、候補生たちの間に少しだけ和らいだ空気が漂う。遠い故郷から届く便りに胸を震わせ、あるいは筆を取って思いを綴る。秦孚もまた、机の前に腰を下ろし、白い紙を慎重に広げた。


 最初に筆を走らせたのは両親への手紙であった。


―――


 父上、母上へ。

 広島に来てから、早くも一月が過ぎました。こちらでは毎日が規律に満ちており、気を抜けばすぐに叱責されます。けれど、これもすべては立派な士官となるための鍛錬であると心得ております。


 館内の案内は徹底しております。起床から消灯まで、行動の一つひとつに規則があり、例えば食堂では声を揃えて合図を待たねばならず、寝具は一糸乱れぬよう整えねばなりません。最初は戸惑うことばかりでしたが、次第に体が規則に慣れてきました。


 上官の前では一言一句を正しく答えねばならず、敬礼の角度を誤れば容赦なくやり直しを命じられます。何度も叱られるたびに己の未熟さを思い知らされますが、そのたびに心を新たにしております。


 父上母上が畑を守りながら私を育ててくださったことを思い、私は一歩も退かぬ覚悟を固めております。どうかご安心ください。


―――


 次に、秦孚は蓬への手紙を取った。彼女の顔を思い浮かべると、不思議と胸の硬さがほどけるのを感じた。


―――


 蓬へ。

 約束を果たして再び宿毛に帰ったとき、お前が見せてくれた笑顔を今も覚えています。その笑みが、どれほど私の力となっているか。ありがとう。


 広島での演習は厳しいものです。館内の案内一つでも細かく、失敗すればすぐに叱責されます。上官への態度もまた厳格で、敬礼の仕方や言葉遣い一つで何度も立たされることがあります。だが、それを乗り越えることが士官への道だと信じ、日々励んでおります。


 時には叱られて心が折れそうになることもありますが、蓬の言葉を思い出すのです。「待ちます」と言ってくれたあの日の港での約束を。私は決して弱音を吐きません。必ず立派になって帰ります。


 そちらの畑仕事は大変でしょうが、どうか体を大事にしてほしい。いつかまた会える日まで、私を忘れぬように。


 一色より。


―――


 手紙を書き終えると、秦孚は封を閉じ、宛名を丁寧にしたためた。その紙片一枚に、自分の今と未来への誓いを託したのだ。彼の胸には、遠く離れた故郷と、そこで待つ人々への想いが揺るぎなく燃えていた。


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