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第二十話第二章

 「手、貸そうか」そう言って一色が鍬を握ると、鈴蓬は小さくうなずいた。ぎこちない共同作業だったが、並んで土を起こすうちに、二人の距離は少しずつ縮まっていった。


 その日から一色の生活には一定の調子が生まれた。朝は夜明けとともに起き、まだ白む空の下で畑仕事を手伝う。鍬を握る両親の隣に立ち、草を抜き、水をやり、苗を支える。手のひらには日ごとに小さな豆が増えていったが、それを誇らしく感じる自分がいた。


 畑を終えると、一色は急ぎ足で尋常小学校へ向かう。教室に入れば黒板の字を追い、算術の答えを必死に考えた。将来を夢見て勉学に励む気持ちが、机に向かう姿を自然と真剣にさせていた。友人の竹内義男と笑い合いながらも、心のどこかで自分を奮い立たせているのを、一色は感じていた。


 下校のあとは、再び畑へと足を向ける。そこには鈴蓬がいた。年下ながら、毎日一人で野菜を抱えて働いている姿に、一色は自然と足を止める。最初はぎこちなかった会話も、日を重ねるごとに少しずつほぐれていった。


 「今日も大根重たそうだな」


 「慣れたら大丈夫よ。手伝ってくれるなら……助かるけど。」そんなやりとりが、いつしか日常の一部となっていた。畑の風景には、汗に光る蓬の額や、土の上に並んだ二人の足跡が混じるようになった。


 日が沈むころ、一色は家へ帰る。囲炉裏で母の作る夕餉を食べ、父と短い会話を交わす。灯明の下で翌日の準備を済ませると、布団に潜り込む。身体は疲れていても、眠りに落ちる前に、昼間見た蓬の笑みや、学校での出来事が胸の奥に温かく残るのだった。


 こうして一色の生活は、学校、畑、蓬、そして家を巡る日々として続いていった。単調でありながら、そこには確かな充実感があった。彼はまだ十歳の少年に過ぎなかったが、その日々はやがて遠い未来へとつながる道を形づくりつつあった。


 一色が十三歳になった春、季節の風は新しい道を運んできた。村を囲む山桜が咲き乱れ、田畑には柔らかな緑が芽吹いているころ、一色は旧制高知高等学校の尋常科に入学した。村から遠く離れた高知の町にあるその校舎は、彼にとってまるで異国のように大きく見えた。


 木造の重厚な校舎、白い漆喰の壁、そして整然と並ぶ机と椅子。田舎で育った一色には、そのすべてが新鮮で、同時に背筋を伸ばさせるものだった。周囲には都会出身の同級生も多く、言葉遣いも服装もどこか洗練されている。だが一色は気後れすることなく、ただ胸の奥にある夢を握りしめていた。――空を翔け、日本を飛行機で一番にするのだ、と。


 授業が始まると、一色は黒板に書かれる一文字一文字を逃すまいと必死に筆を走らせた。算術や英語、理科、どれも難しく、村の尋常小学校で学んだ知識では追いつけない場面もあった。だが負けたくはなかった。夜は寮の灯りの下で遅くまで本を読み、翌朝は早起きして復習を重ねた。


 田舎者と罵られたこともあったが必死の努力をした。


 努力をしたのは学問だけではない。武道の稽古にも一色は心を燃やした。柔道場の畳の上で投げ飛ばされ、剣道場の木剣が腕に痺れる痛みを残すたびに、己の弱さを知る。しかしその悔しさが、一層彼を鍛えていった。農村育ちの体力を活かし、やがて上級生からも「根気強い」と認められるようになった。


 そんな日々の中でも、一色の心には変わらぬ想いがあった。高台から見た空の青さ、飛行機の翼、その記憶は今も彼を支えていた。机に向かうときも、竹刀を握るときも、思い描くのはただ一つ――自分が空を翔ける姿だった。


 村を離れる前、一色は鈴蓬に会いに行った。彼女は十歳になり、尋常小学校をもう二年で卒業しようとしていた。畑では小さな体で野菜を運び、土を耕す姿があった。モンペ服の袖を土で汚しながら、それでも真剣な眼差しで働いていた。


 「蓬」一色が声をかけると、彼女は顔を上げた。夕暮れの光が頬を照らし、まだ幼さを残す笑みが浮かぶ。


 「もう、行っちゃうんでしょ」蓬の言葉には、少し寂しさが滲んでいた。


 「ああ。高知の都会に行く。勉強して、もっと強くなって……それから飛行機に乗るんだ」


 「……ほんとに飛行機に?」


 「うん。必ず」きっぱりと答える一色の目は真剣だった。蓬はしばらく黙って彼を見ていたが、やがて土に付いた手をぎゅっと握りしめた。


 「じゃあ、絶対にまた会いに来て。私は畑を続けるよ。お父さんもお母さんももう年だし、私がやらなきゃならないから。でも……秦孚が帰ってくるの、待ってるから」その声は幼いながらも強い決意に満ちていた。一色は胸の奥に熱いものを覚えた。蓬の姿は、彼の夢を支えるもう一つの理由になるのだと感じた。


 「わかった。約束する。必ずまた来る。」そう言って一色は右手を差し出した。蓬は少し戸惑いながらも、その手を握り返した。小さな手はまだ温かく、土の匂いがした。


 二人の間に、沈みかけた陽が赤い光を投げかける。鳥が山へと帰り、畑には夜の風が吹き始めていた。


 一色はその日を胸に刻んで村を離れた。高知での勉学と鍛錬の日々がどれほど厳しくとも、この約束を守るために進み続けるだろう。蓬は畑に根を張り、一色は空へと憧れを抱く。二人の道は遠く離れたが、互いの心は確かに結ばれていた。


 旧制高知高等学校の尋常科に入学してからの年月は、一色にとって試練の連続であり、また誇りの日々でもあった。寮と校舎を行き来する生活は規則正しく、同時に苛烈だった。朝は鐘の音で目を覚まし冷たい井戸水で顔を洗うと、食堂で簡素な朝食をとる。その後は教室に向かい、難解な授業が待ち受ける。


 昼は学問に没頭し、夕方には武道の稽古に汗を流す。夜は寮に戻り、蝋燭やランプの灯りの下で参考書に目を走らせた。机に突っ伏したまま眠ってしまい、気づけば夜明けの鳥の声で目を覚ますこともあった。それでも一色は、弱音を吐くことはなかった。彼を支えていたのは、幼い頃から抱き続けた「空を翔けたい」という夢と、村に残してきた蓬との約束だった。


 やがて数年の学びを経て、卒業の日を迎えた。講堂に整列する生徒たちの中で、一色の名は首席卒業者として読み上げられた。その瞬間、胸に熱いものがこみ上げた。田舎から来た自分が、多くの優秀な同級生を差し置いて首席に立つ――それはただの名誉ではなく、自分の努力が夢へ一歩近づいた証だった。


 卒業後、一色は江田島海軍兵学校の入試に挑んだ。試験会場には全国から集まった若者が溢れていた。学科試験では、積み重ねてきた勉学が力となった。体力試験では、農作業と武道で鍛えた身体が頼もしい味方となった。ただはっきり言っていままでの試験と比べてはいけない難易度と険しさだった。倍率は35倍。


 結果発表の日、一色の受験番号はしっかりと掲示板に記されていた。合格――その二文字を見た瞬間、全身から力が抜けるように安堵した。心の奥で「これでようやく夢の入り口に立てたのだ」と思った。


―――――――――――――――

 

 その知らせを携え、一色は久方ぶりに宿毛の故郷へ戻った。湾に面した町は相変わらず静かで、潮の匂いが懐かしかった。家の土間に入ると、両親は目を潤ませながら迎えた。


「父さん、母さん。俺、海軍兵学校に合格した。これからは広島で暮らすことになる。」


 そう告げると、父は深くうなずき、母は袖で目元を拭った。田畑を手伝わせ、厳しくも愛情をもって育ててきた息子が、ついに夢を実らせたのだ。その誇らしさが、二人の顔にあふれていた。


――――――翌日――――――

 

 一色は畑に立つ鈴蓬に会いに行った。彼女は成長して背も少し伸び、相変わらず土にまみれながらも生き生きと働いていた。


 「秦孚様、おかえり」蓬の笑顔は、あの頃のままだった。


 「ただいま。……俺、海軍兵学校に合格した。これから広島に行く。」そう告げると、蓬は一瞬だけ黙り込み、やがて笑顔でうなずいた。


 「やっぱり、そうなると思ってた。昔からずっと空を見てたもんね」


 一色は少し照れくさく笑った。

 「蓬は……元気にしてろよ。畑はもう任せられるだろ。もう十四なんだからな。」


 「うん。お父さんもお母さんも、私が守るよ。だから、秦孚様は思いきり空を翔んで。私、ここで待ってるから。」


 夕暮れの風が二人の間を吹き抜けた。かつて交わした「また会いに来て」という約束が、今も変わらず心に生きていることを、互いに感じていた。


 別れの時、蓬は笑顔を崩さずに言った。


 「行ってらっしゃい、秦孚様」


 「ああ。必ず立派になって帰る。」しっかりとした声で返した一色は、再び夢の舞台へと向かう決意を胸に宿毛を後にした。


 村の畑に残る蓬と、広島で新しい道を歩む一色。二人の進む道は異なれど、幼い日の誓いと心の絆は、変わることなく彼らを結んでいた。

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