第二十話第一章
宿毛湾は、夕暮れの光を浴びて穏やかに広がっていた。波は細かく寄せては返し、岸辺の松林を濡らすように淡く光を残す。まだ軍艦の姿はどこにもなく、ただ漁に出た小舟が点々と揺れているだけだ。だが、一色秦孚の目には、その静かな光景が未来への舞台のように映っていた。
彼はまだ十歳の少年だった。段々畑の高台に腰を下ろし、裸足のまま草を踏みしめながら、両腕で膝を抱える。吹き抜ける潮風が頬を撫で、陽に焼けた額にさらさらと髪を散らす。眼下には広大な湾があり、そこにいつの日か海軍の艦艇がずらりと並び、海軍旗をはためかせる姿を想像していた。
そのとき、遠くで微かな唸りを伴って一機の練習機が姿を現した。小さな機体が空をかすめ、夕陽を背にして銀色と赤色に輝く。秦孚は慌てて被っていた帽子を取り、全身で振った。声にはならない声で「おーい」と叫び、胸を弾ませる。機影は答えることなく通り過ぎたが、彼の心には確かな熱が刻まれた。
――いつか、あの空に立つ。
少年の眼差しは、ただの憧れではなく強い決意の色を帯びていた。湾の静けさも、段々畑の緑も、その夢を遮ることはできなかった。秦孚の小さな影は、高台から大きな未来へと延びていた。
段々畑の高台で海を見下ろした日のことは、一色の胸に深く残った。あのとき空をかすめていった練習機は、ただ遠い景色の一部ではなかった。――自分も、いつかあの翼に触れたい。そう思った少年は、その日から少しずつ日々の過ごし方を変えていった。
朝早く、まだ山影に露の冷たさが残るうちに起き出す。畑の手伝いが彼の日課だった。両親が黙々と鍬を振るう横で、秦孚も小さな体を揺らしながら草を抜き、苗木に水をやる。土の匂いが爪に入り込み、足元の泥は乾いて固く張り付いた。それでも彼は不満を口にせず、時おり顔を上げて、空に浮かぶ雲を見つめていた。あの上を飛ぶ日が来ることを、強く願いながら。
畑仕事を終えると、秦孚は木製のランドセルを背にして尋常小学校へと向かった。道はあぜ道を縫うように続き、稲の葉が風に揺れる音が耳に残る。その隣を歩いていたのが、同じ学年の竹内義男だった。丸顔で快活な少年で、畑を耕す父を手伝う姿は秦孚とよく似ていた。
「秦孚、今日も先生に褒められるんだろうな。」
「そんなことないさ。ただ、覚えたことを忘れないようにしてるだけ。」
「俺なんか、昨日の算術もまた間違えちまったよ。」
義男は後頭部を掻きながら照れ笑いした。だが勉強に劣ることを卑下するようなことは言わない。彼には彼なりの誇りがあった。畑の作物を育てること、家を守ること。義男の家もまた、地元の土と密接につながっていた。
二人はしばらく黙って歩いた。やがて、秦孚が小さく鼻歌をこぼす。
「見よ東海の空明けて――」
その調子に乗せられるように、義男も声を張った。
「旭日高く輝けば――」
彼らが歌っていたのは「愛国行進曲」だった。ラジオや町の行事で耳にするたびに、少年たちの胸を熱くさせる歌だ。稲の間を抜ける風が歌声を運び、空の青さがそれに応えるように広がる。
声を合わせるうちに、二人の足取りは自然と軽くなった。あぜ道を進む影が並び、歌声に重なる笑い声が田園に響いた。
尋常小学校に着けば、秦孚は勉強に真剣だった。文字を覚えること、算術を解くことは、ただの義務ではなかった。海軍兵学校に進みたい、その夢を果たすために必要な道だと知っていた。義男はときに机に突っ伏して眠そうにしていたが、それでも放課後には一緒に畑の畦を歩きながらまた歌を口にした。
――未来が、そこにあると信じていた。
陽は容赦なく畑を照らし、額の汗を拭う間もなく土に鍬を振るう日々。義男は笑って言った。
「俺は、親父の畑を継ぐさ。それで十分だ」
秦孚は頷いた。けれど心の奥底では、いつか空を翔けたいと願い続けていた。二人の歩む道は、同じ田んぼのあぜを並んで進んでいても、やがて別の場所へ続いていくのかもしれない。そうした不安を抱えつつも、まだ少年の彼らは気づいていなかった。
日が傾くころ、再び空を飛ぶ練習機の音が響いた。秦孚は畑に立ち、麦わら帽子を振る。義男も隣で手を振り上げる。その瞬間だけは、二人の心は同じ空に届いていた。未来のことなど考えず、ただ憧れを胸に抱いて。
こうして秦孚は畑に根を張りながらも、勉強に励み、夢を追い始めた。義男と並んで歌った愛国行進曲の響きは、いつまでも耳の奥に残り、少年の日々を彩っていた
学校から帰ると、一色はまた畑へと足を向けた。家の裏手から少し離れたところに小さな畑があり、そこでは野菜を育てている。夏の夕方の光はまだ強く、赤みを帯びた陽射しが西の山の稜線を照らしていた。
畑へ向かう途中、一色は思わず足を止めた。小さな体に大きめのモンペ服をまとい、腰を少し曲げながら野菜を抱えて運んでいる女の子がいた。年は自分より二つか三つほど下だろうか。両腕にいっぱいの大根を抱えて歩く姿は頼りなく、今にも転びそうだった。
「お、おい、大丈夫か?」思わず声をかけると、女の子は驚いたように振り返った。大きな瞳が一色を見て、少し警戒するように瞬きをした。
「だいじょうぶ……です。」
言葉こそそう返したものの、足取りは不安定で、今にも抱えている大根を落としそうに見えた。一色は駆け寄り、手を差し出した。
「持つよ。そんなに一人で運ばなくてもいいだろ」
女の子はためらったように視線を落としたが、結局、一色に半分を渡した。腕にずしりと重みがかかる。小さな体でこれを運んでいたのかと思うと、健気さに胸が熱くなる。
「ありがと……」
「いいって。こっちの畑か?」
女の子はこくりとうなずき、前を歩いた。二人で並んで畑に向かう。赤土の道に二人の影が長く伸び、風が吹き抜けるたびに、女の子の短い髪が揺れた。
畑に着くと、彼女は大根を置いて深く息をついた。モンペの袖で額の汗を拭う仕草が、年齢よりもしっかりして見えた。
「毎日手伝ってるのか?」
「うん。お父さんが村の会合で遅くなること多いから、私がやるの」淡々とした口ぶりだったが、その言葉には少し誇らしげな響きがあった。一色は思わずうなずく。
「えらいな。俺も家の畑を手伝ってるけど、たまにさぼりたくなる」
女の子は小さく笑った。その笑みは少しぎこちなかったが、頬にえくぼが浮かび、夕暮れの光に照らされて柔らかく見えた。
「……名前は?」
「一色。お前は?」
「鈴蓬……」
少し照れくさそうに答えた。互いにそれ以上の言葉は出てこなかったが、畑の風が吹き抜ける静けさの中、しばらく並んで立っているだけで、不思議と心が和らいだ。
一色は空を見上げた。夕雲が茜色に染まり、鳥が山へ帰っていく。その横で、鈴蓬が土をならす仕草をしている。まだ不器用で、鍬を持つ手もおぼつかない。




