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第十九話最終章

 翌日も、円華はキャンバスの前に立っていた。すでに下塗りは乾き、いよいよ細部を描き込む段階に入っていた。


 「今日は服と表情を中心にするよ」そう言って彼女は筆に絵の具を含ませ、私の服の襟元から描き始めた。暗めの藍色をベースに置き、そこに白を混ぜた色を重ねる。しわの流れに沿って明るい部分と暗い部分を分け、布の質感を少しずつ立体的にしていく。


 「油絵って、不思議だな。塗り重ねるほどに、奥が出てくる」

 

 「うん、光をどう扱うかで全然違って見えるんだ。布が柔らかくなるのも、影が強くなるのも、全部光のせい」彼女はそう説明しながら、筆を動かす。白いハイライトをほんの少し加えるだけで、服の布地は光を受けているように見える。影の部分には青や紫を混ぜ、単なる黒にはしない。


 やがて筆は顔へと移った。頬に薄い肌色を置き、乾いた部分に透明な層をかける。鼻梁に光を置き、瞳の周りに細かい影を加える。私が少し動くと、彼女は真剣に目を細め、その変化を確かめてからまた筆を走らせた。


 「……目元の影は難しいな。でも、これがないと生きてる感じにならない」つぶやく声には焦りよりも熱意が滲んでいる。その姿を眺めながら、私はなんとも言えない気持ちになった。自分の顔が画面に写し取られ、そこに光と影が宿っていく。自分でも気づかない表情を、彼女が拾い上げているように思えた。


 「どうだ? 進んでるか」

 

 「うん……でも、まだまだ。秋一くんを“ここにいる”って思わせるには、もっと描き込まなきゃ」彼女は額の汗を拭いながら、少しだけ微笑んだ。


 作業を終えて片付けをしているとき、円華はふいに口を開いた。


 「ねえ……昨日、中村くんと話してたよね」

 

 「ああ。たまたま捕まってな。モデル、大変だろって心配してくれて」

 

 「そっか……」彼女の声がかすかに沈む。私は首を傾げた。


 「どうかしたか?」

 

 「ううん。別に。ただ……なんか変な感じで」筆洗を拭く手が止まり、円華は小さく笑った。

 

 「秋一くんが誰かと楽しそうに話してるのを見て、ちょっと胸がざわざわしたんだ。私、変だよね」


 私は少し驚いたが、すぐに笑みを返した。

 「変じゃないさ。私だって、円華が他のやつと楽しそうにしてたら、きっと同じだ。」


 その言葉に彼女は目を見開き、頬を赤くした。

 「……そう言ってくれると、少し安心する」


 風が木立を揺らし、乾きかけた絵具の匂いがふわりと漂った。キャンバスの中の私は、光と影を纏い始めている。けれど本当にそこに命を吹き込んでいるのは、きっと彼女自身の感情なのだろう。


 「だから、もっと描かせてね」

 

 「もちろん。私も最後まで付き合うよ」


 円華は深く頷き、再びキャンバスを見上げた。その目は、絵を越えて私自身を見つめているようで、私は思わず息を詰めた。


 夏から続いた制作の日々は、気がつけば季節の匂いを変えていた。葉が色づき始める頃、円華の大きなキャンバスにはようやくすべての色が重なり合い、私の姿が浮かび上がっていた。


 最後の最後、彼女は細い筆を取り、目元の光をほんのひとかけら置いた。その瞬間、絵の中の「私」は、ようやく呼吸を始めたかのように見えた。


 「……これで、完成」


 円華は深く息をつき、掌をそっと膝に落とした。だが、その場で私に見せることはなかった。片付けを終えると、キャンバスには布が掛けられ、美術室の隅に静かに立てかけられた。


 「どうして見せてくれないんだ?」

 

 「今はまだ。……コンクールが終わってから、ちゃんと見てもらう」そう言って円華は微笑んだ。その笑みはいつもより少しだけ照れくさそうで、私を黙らせる力があった。


―――――――――――――――

 やがて訪れた文化祭当日。美術部の展示室は、部員たちの大きなキャンバスで埋め尽くされていた。色とりどりの風景、人物、抽象。どれもそれぞれの「一番」を詰め込んだものだ。


 円華の作品もその中に並べられていた。布はもう外され、白い壁に掛けられている。観客たちが足を止め、視線を釘づけにしていた。私は彼女の後ろからそっとその様子を見守った。


 審査が始まり、部員たちも観客も固唾をのんで見守る。発表の瞬間、円華の名前が読み上げられた。


 「佳作――常陸円華」


 その場に柔らかなざわめきが広がり、円華は思わず目を丸くした。次の瞬間、彼女は顔を輝かせ、仲間に祝福されながら何度も小さく頷いていた。


 「やった……! ほんとに、やった!」その声には、長い時間積み重ねてきた努力と緊張が解き放たれた喜びが滲んでいた。

 私も胸の奥から熱いものがこみ上げた。佳作。それは彼女の努力が確かに認められた証だった。


 展示がひと段落した後、円華は私を呼び出した。人の少ない展示室の隅で、改めて私を作品の前へと案内する。


 「……じゃあ、見て」彼女の合図で、私はついにその絵と向き合った。


 キャンバスいっぱいに広がる木立の緑。その中央に、私が座っていた。車椅子に収まる姿は決して弱々しいものではなく、光に包まれるように描かれていた。肩や手に宿る柔らかな影が、私の存在をくっきりと浮かび上がらせている。空の青は深く、雲は白く流れ、枝葉の間から差し込む光が全体を優しく抱いていた。


 「……これ、私か」

 

 「うん。秋一くんを、どうしても描きたかった」彼女は少し恥ずかしそうに言った。


 「光と影を重ねていくと、不思議と秋一くんの顔が浮かんできて……。描きながら、私自身の気持ちが混ざってたのかもしれない」


 私は絵に目を戻した。そこには確かに「私」がいた。けれど同時に、円華の想いが幾層にも重ねられているのが伝わってきた。強さも弱さも、静けさも温もりも――絵の中でひとつに溶け合っている。


 「すごいな……。こんなふうに私を見てくれてたんだな」

 

 「……見てたよ。ずっと」


 彼女の声は小さかったが、しっかりと届いた。その瞬間、私はただ静かに頷いた。言葉にするのは難しかった。けれど胸の奥で、円華の努力と想いを受け止めた確かな感覚があった。


 展示室の窓から午後の光が差し込み、絵の中の青空と重なるように床へ伸びた。円華の笑顔もまた、その光に照らされて輝いていた。

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