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第十九話第六章

―――翌週――いよいよ制作が始まった。


 校庭の横――誰も立ち寄らない木立の一角に、円華は自分の道具を一式運び込んだ。キャンバスはF50号。私にはそれがどれほどの大きさかすぐには分からなかったが、立て掛けられたそれを見て思わず口をついた。


 「……でかいな」


 横は一メートルを超え、縦も一メートルないしの板張りのキャンバスは、校舎の壁に掛かっている掲示板よりも大きく見えた。彼女は額に汗を浮かべながら木枠を支え、画架に固定している。


 「大きさで迷ったんだけど……やっぱり、これくらいのスケールが欲しいなって思ったんだ」


 「でも運ぶだけでも大変そうだぞ」


 「大丈夫。お父さんに手伝ってもらったから」円華は少し照れくさそうに笑う。彼女が本気で描こうとしていることが、サイズだけで伝わってきた。


 準備が整うと、彼女はスケッチブックを開いて以前描いたラフを確認した。ページの中央には、車椅子に腰かけた私の姿が鉛筆で線描されている。その両脇には木立が重なり、頭上には広がる空が描き込まれていた。


 「……これを元にするけど、今日は下書き。細かいところまではやらないよ」


 「下書きって、鉛筆で描くのか?」


 「うん。鉛筆でアタリをつけて、構図を決めるの」


 彼女は布袋から黒い鉛筆を取り出し、手のひらで軽く砕きながらキャンバスに近づいた。私の位置を中央に見定め、迷いなく縦に大きな線を走らせる。すっと一本、そしてもう一本。画面の真ん中に車椅子の輪郭を置き、その中に私のシルエットを収める。


 ごしごしと音がして、白かったキャンバスに黒い線が交錯していく。輪郭が粗く浮かび上がるたびに、私は妙に落ち着かない気持ちになる。


 「なんか……丸裸にされてるみたいだな」


 「ふふ、そうかも。でも大丈夫。これはまだ骨格。服を着せるのはこれからだよ。」彼女の冗談めいた返しに、少し肩の力が抜けた。


 やがて車椅子の枠と私の上半身のラインが決まると、彼女は左側に移って木々の位置を描き入れ始めた。幹を縦に走らせ、枝を左右に広げる。背後の茂みは塊として暗い影をつけ、前景には草の揺れを軽く書き込む。


 「ここは濃い緑になるだろうな……」

  

 「空は、この辺に雲を流して……」


 円華は独り言のように呟きながら、手を休めることなく進めていく。右側にも一本の木を立て、全体のバランスを取るように葉の塊を配置する。


 最後に上方に視線を上げ、空の部分を大きく空けた。鉛筆で軽く斜線を引き、雲の形を描く。長く横に伸びる雲と、小さくちぎれた雲。その下に私の姿がぽつんと収まっている。まだ粗い線だけだというのに、不思議なことにすでに絵の気配が立ち上がっていた。


 「……私が、ここにいるんだな。」ぼんやりと呟くと、円華は振り返って微笑んだ。

 「そうだよ。これから何日もかけて、もっとちゃんとした“ここ”にするから」鉛筆の粉が指先を黒く汚し、制服の袖にも擦れた跡がついている。だが彼女の顔には迷いがなかった。


 下書きが進む間、私はただその様子を見ていた。車椅子に座っているだけなのに、じわじわと胸の奥が熱くなる。彼女は線を引くたびに、私をこの風景の中に定着させていく。その行為が、今までの自分を塗り替えていくように思えた。


 「よし……今日はここまでにしよう。」太陽が西に傾き、光が木々の隙間から朱色に差し込んだ頃、円華は鉛筆を置いた。キャンバスには大まかな構図が整っている。中央に私の姿、左右に伸びる木立、そしてその上に広がる空。


 「明日からは油絵の具を使って、色を重ねていくよ」

 

 「油絵って、そんなに時間がかかるのか?」


 「うん。乾くのに日数がかかるからね。一日で仕上げるなんて無理。少しずつ、何層も重ねていくんだ」彼女の目は、すでに次の段階を見据えていた。


 「……私がここにいるだけで、本当にいいのか?」つい、そんな疑問が口をつく。だが円華はきっぱりと答えた。

 

 「いいの。私が描きたいのは“秋一くんのいる風景”だから。」その言葉に、胸がまた熱くなる。


 片付けを終え、二人でゆっくりと校庭を抜けて帰る。彼女は重そうなキャンバスを慎重に抱え、私はその後ろを車椅子でついていく。空はすでに群青色に染まり始めていた。今日描かれた下書きが、やがてどんな色を纏うのか。想像するだけで、心の奥に小さな灯がともるようだった。


―――翌日―――

 円華はまた大きなキャンバスを木立の前に据えた。昨日の鉛筆による下書きの上に、今日はついに色を乗せていくという。


 「まずは地塗りからだよ。」そう言って、彼女はパレットに茶色と白を混ぜて広げた。下地の白いキャンバスをそのままにして描くと、色が浮いてしまうのだという。刷毛を大きく走らせ、赤みを帯びた薄いアンバー色を全体に塗っていく。ざらついた鉛筆の線も柔らかく沈み、画面全体が温かい色に包まれた。


 「これで下地が整った。ここから描き始められる。」円華はにこりと笑い、今度は青と白を混ぜて空の下塗りにかかった。大きな面積を広い筆で塗りながら、まだ雲の位置は曖昧に空けてある。私からするとただの水色の広がりに見えたが、彼女は何度も空を見上げ、筆を動かす速度を調整していた。


 次に木々へ移った。下塗りは一色で塗りつぶすのではなく、濃淡をざっくり置く。緑というより、むしろ黒に近い深い緑を幹の周囲に塗り、葉の塊は明るい緑で軽く叩くように置いていく。


 「本番の色は乾いてから重ねるから。今は“下ごしらえ”ってところかな」

 

 「料理みたいだな」私の言葉に、彼女は小さく笑った。


 最後に、画面中央にいるはずの私の姿に手をかけた。だが彼女はすぐに手を止め、代わりに薄い灰色を背景に馴染ませるように塗りこんだ。

 

 「人物は一番大事だから、いきなり描かない。周りを固めてから少しずつ立ち上げるの」その声を聞きながら、私は妙に胸がくすぐったかった。自分の姿が一枚の大きな画面に定着していく――その過程をこうして目の前で見せられることは、不思議な体験だった。


―――数日後―――

 絵はさらに進んだ。下塗りが乾くと、円華は細かい色を置き始めた。空には群青を重ね、その上から白で雲を浮かせる。木々には濃い緑と明るい黄緑をまだらに塗り分け、葉の奥行きを出していく。


 「ここからはグレージングを使うよ。」そう言って彼女は、油を多めに混ぜた薄い色を透明のヴェールのように塗り重ねた。光が透けるように重なる色合いは、ただの平面に奥行きを与えていく。緑の上に黄色をかければ陽射しに照らされた葉となり、青を重ねれば影の冷たさが増す。


 「乾くまで時間がかかるけど……そのぶん、ゆっくり考えながら描けるのが油絵のいいところ。」彼女はそう呟き、筆先を休めずにいた。


 そしてついに、人物の部分に筆が入った。輪郭をなぞるように明暗を置き、服の色を薄く塗る。車椅子のフレームはまだ曖昧だが、背景の色とぶつからぬよう丁寧に区切られている。


 私はただ、木漏れ日の下でじっとしていた。時折風が吹き、頬に当たる。それを受けながら、絵の中の自分もまた、同じ風に包まれているのだろうかと想像した。


 「……秋一くん」筆を置いた円華が、ふと私を見て言った。


 「だんだん、絵の中に君が“いる”感じがしてきた。」私はどう返せばいいか迷い、ただ小さく「そうか」と笑うしかなかった。だが胸の奥は、鮮やかな色を重ねられるようにじわりと熱くなっていた。


 放課後の木立に向かう前、円華はたまたま昇降口の陰で足を止めた。そこに、私と誰かが話している姿が見えたのだ。


 相手は同じ美術部の中村だった。彼は明るい性格で、クラスでも人気があり、円華ともよく意見を交わす仲だった。技術力も高く、彼女にとっては良きライバルでもある。


 「そのポーズ、大変じゃない? 肩とか疲れない?」

 

 「まあな。でも、思ったよりは平気だ。円華が工夫してくれてるし」

 

 「へえ、やっぱり円華ってすごいな。」私が笑って答えると、中村も気軽に笑い返した。二人の会話は軽やかで、親しい雰囲気が漂っている。


 ――どうしてだろう。円華は胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚を覚えた。もちろん、中村とは仲がいいし、嫌いなわけではない。むしろ彼がいたから切磋琢磨できた場面も多い。けれど、今こうして私と親しげに話す姿を見ると、なぜか落ち着かない。


 「……私のモデルなのに。」そんな独り言が口から漏れそうになり、慌てて飲み込む。視線を逸らし、彼らに気づかれないよう美術室へと足を向けた。

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