第十九話第五章
美術部の部室に、顧問の教師の声が響いた。
「今年の文化祭も、例年通りコンクールに出す作品を用意してもらう。テーマは“自分が一番描きたいもの”。風景でも人でも物でもいい。水彩画でも油絵でも構わない」
その言葉を聞いた瞬間、部員たちの間に小さなどよめきが走った。紙の擦れる音、筆箱を開く音、意見を交わすひそひそ声。それぞれが頭の中に浮かぶイメージを急ぎ手繰り寄せているのが分かる。
私は、円華の隣で静かに耳を傾けていた。彼女は一瞬、表情を曇らせてうつむいた。鉛筆を指先で転がしながら、視線は机の一点に釘付けだ。
――描きたいもの。
その問いは私にも突き刺さるものだったが、円華にとってはもっと切実なのだろう。昨日、あの告白を交わしたばかりだ。私と彼女の関係は確かに変わったが、それと「描きたいもの」をどう繋げるか、彼女の中で答えが出ていないように見えた。
放課後、部室を出たあとも円華は何度もため息をついていた。
「……難しいなあ」
「そんなに悩むことか?」
「うん。だって“自分が一番描きたいもの”って、正直すぎるんだもん」彼女の言葉に、私は返事を飲み込む。自分が一番描きたいもの。
それがもし、昨日見せてくれた二枚目のデッサン――“私と一緒に笑っている姿”だったとしたら。そう思うだけで胸がざわついた。
数日が過ぎても、円華は決めかねていた。部員たちは次々に対象を決めて下絵を描き始める中、彼女だけがスケッチブックを白紙のまま抱えている。昼休みに一緒に食事をしていても、授業の合間に廊下ですれ違っても、心ここにあらずのように沈んだ顔をしていた。
「……なあ」ある日の帰り道、私は思い切って声をかけた。
「そんなに悩むなら、気分転換にでも行ったらどうだ。部室にこもってるより、外の空気吸った方が楽になる」
円華は少し驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「そうだね。……秋一くん、付き合ってくれる?」
「まあ、車椅子が行ける範囲なら」
「うん。じゃあ、校庭の横に行こう」
校舎を抜け、夕陽が傾き始める時間帯。校庭の外れはグラウンドの喧騒から少し離れていて、雑草や葎が生い茂り、小さな木立が点々と立っている。普段は誰も近寄らない場所だが、夏から秋へと移り変わる今の季節には、草木の匂いと虫の声が重なり合って心地よかった。
「ここ、好きなんだ」円華は立ち止まり、柔らかく微笑んだ。
「夕方になると光が斜めに入って、葉っぱの影がきれいに揺れるの。誰もいないから、時間が止まったみたいに静かで……」
彼女はその場に腰を下ろし、スケッチブックを膝に広げた。私も車椅子を少し前に出して並ぶ。風が髪を揺らし、草のざわめきが耳に優しい。
「ここで描くのか?」
「うん。最初は風景だけにしようと思った。でも……違うんだ。木や草を描くだけじゃ足りない」円華の声は、どこか決意を秘めていた。彼女はスケッチブックをぎゅっと握りしめ、私の方へ視線を向ける。
「秋一くん。お願いがあるの」
「なんだ」
「……ここで、私に描かれてくれない?」一瞬、時間が止まったように感じた。
「私を……描く?」
「そう。風景の一部としてじゃなくて、この場所にいる秋一くんを。ここで見ている姿を、ちゃんと残したいの」彼女の瞳は真剣だった。告白のときと同じ、揺るぎない光が宿っている。
「どうして私なんだ」思わず問い返す。自分をモデルに選ぶ理由が、まだ受け止めきれなかった。
円華は少しだけ視線を逸らし、それから静かに言葉を紡いだ。
「一番描きたいものを、って言われたから。私にとってそれは、秋一くんなんだよ。それに私の彼氏でしょ」最後の理由が小さくなった。
しかしその一言が、胸の奥に深く響いた。
彼女はさらに続けた。
「昨日も今日も、ずっと悩んでた。でも気づいたんだ。私が描きたいのは“風景の中の君”じゃなくて、“君のいる風景”なんだって。木や草や光と一緒に、そこに君がいることが大事なんだ」
私は言葉を失った。事故以来、風景の中で自分は「余分な存在」だと思っていた。体育祭も校外学習も、いつも端に追いやられている気がしていた。だが円華は、私こそが風景を完成させる存在だと言う。
「……そんなふうに、考えてくれるのか」
「うん」円華は真っ直ぐに頷いた。
風が二人の間を抜け、草の香りが漂う。私はしばらく黙ってその場を見渡した。夕陽が木々の隙間から差し込み、葎の群れが影を落としている。その中に自分が座っている姿を、彼女が描き残す。想像するだけで胸がざわめいた。
「……分かった」やがて私は、静かに返事をした。
「私でいいなら、好きに描いてくれ」円華の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう! 本当に……ありがとう」彼女の声は弾んでいた。心の底から嬉しそうな笑顔を見て、私も少しだけ肩の力を抜いた。
「ただし、ちゃんと完成させろよ」
「もちろん!」夕陽の光に照らされ、彼女はスケッチブックを開き、鉛筆を走らせ始めた。その横顔は真剣で、同時に楽しげだった。
私は静かに息を吐き、空を見上げる。高く澄んだ空に、渡り鳥が群れをなして飛んでいく。
――彼女が選んだ“描きたいもの”に、自分がいる。
その事実が、今までのどんな言葉よりも心を軽くしてくれていた。




