第十九話第四章
―――翌日の放課後―――
美術室の窓から斜めに差し込む陽射しは、白いカーテンを透かして淡く揺れていた。机の上には鉛筆と練り消しが散らばり、静かな空気を保っている。私が車椅子で入っていくと、すでに円華が画用紙を抱えて席に着いていた。
「来てくれてありがとう」彼女は立ち上がり、軽く会釈した。私はその仕草に、なぜだか胸の奥が少し熱くなる。
「別に……暇だっただけだ」言い訳のように口にすると、円華は「ふふ」と小さく笑い、画板をこちらへ持ってきた。
「これ、見てもらってもいい?」差し出された紙に視線を落とす。そこには、昨日の美術室で座る自分の姿が描かれていた。光の当たり方や髪の影、表情の硬さまで正確に写し取られている。だが写実的というよりも、私の中の何かを掬い上げようとする眼差しが、画面全体に込められていた。
思わず息を止める。誰にも見せたくないと思っていた部分を、彼女が覗き込んでいるような錯覚。けれど嫌悪感はなく、不思議な安心感があった。
「……すごいな。私なんか、こんなふうに見えてたのか」
「うん。私には、こう見えてる」円華は柔らかな声で答える。私はその一言に、なぜか救われるような気がした。
「ありがとう。……なんか、感謝してる」
「秋一くんがいてくれたから、描けたんだよ」
彼女は少しだけ目を伏せて笑った。けれど、次の瞬間には視線を揺らし、ためらうように唇を結ぶ。言いたいことがあるのに言えないときの表情だった。
「……どうした?」尋ねると、円華は小さく息を吐き、机の下からもう一枚の画用紙を取り出した。
「実は、もう一枚描いてたんだ」それをそっと机に置き、私の方へ押しやる。
そこにあったのは、驚くほど温かな光景だった。椅子に座る私の隣に、彼女が腰を下ろして笑っている。二人で談笑している場面が柔らかい線で描かれ、背景には大きな窓からの光が差し込んでいる。現実には一度もなかったはずの場面が、確かに紙の上に生きていた。
私は言葉を失い、ただ見つめた。鉛筆の濃淡だけで、これほど鮮やかに「共に過ごす時間」が伝わることに、胸が詰まった。
「……これ、私と、常陸?」
「うん」円華は頷いた。視線は私ではなく絵に注がれている。
「いつか……こんなふうに描けたらいいなって思ったんだ。私と秋一くんが、同じ場所で笑ってるのを。」その声は震えていた。告白とも、願いともつかない言葉。私は胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じながら、改めて絵に目を落とした。
そこに映る二人は、とても自然だった。車椅子も、ぎこちなさも描かれていない。ただ同じ空間で笑い合っている。まるで最初からそうあるべきだったかのように。
私はゆっくりと息を吸い込む。今まで、他人に自分を描かれることが怖かった。けれどこの絵を前にすると、不思議と「悪くない」と思えた。
「……こんなの、私には想像できなかった」掠れた声でそう言うと、円華は目を丸くして私を見た。
「でも、すごく……嬉しい」感謝とも照れともつかない気持ちが、胸の奥から込み上げてきた。絵の中の笑顔が、今の自分を少しずつ解きほぐしていくようだった。
円華は小さく安堵の息をつき、それから少しだけ唇を噛んだ。まだ言葉にしきれないものを抱えているように見える。だがそれを無理に問い詰める気にはなれなかった。
窓から差し込む夕陽が、二枚のデッサンを朱に染めていく。私はその光景を目に焼き付けながら、胸の奥で静かに思った。
―――翌日の放課後―――
空はどこまでも青く澄んでいたが、校舎の窓に映るその光景を眺める余裕はなかった。
「……また、美術室か」
円華から呼び出されたとき、真っ先に浮かんだのは昨日の二枚のデッサンだった。彼女の真剣な眼差し、そして二人並んで笑っている絵。胸の奥に残ったあの温かさと戸惑いが、まだ消えずにくすぶっている。
車椅子を押しながら廊下を進む。人気の少ない放課後、靴音とタイヤの軋む音だけが響く。美術室の前に着くと、すでに扉の隙間から柔らかな夕陽が漏れていた。
扉を開けると、円華は窓際に立っていた。画板も鉛筆もなく、両手をぎゅっと握りしめている。いつもの彼女らしくない姿に、私は思わず眉をひそめた。
「……今日は、描かないのか?」尋ねると、円華は小さく首を振った。
「うん。今日は……絵じゃなくて、私の言葉を聞いてほしい。」その声音に、胸が一気に高鳴る。彼女の視線は真っすぐで、どこか覚悟を帯びていた。
「秋一くん。私、昨日の絵……あの二枚目の方、本当はすごく迷ったんだ。見せていいのかどうか。でも、あれが私の気持ちに一番近いから、どうしても見せたかった」
円華の声は震えていたが、言葉には迷いがなかった。私は黙って頷く。
「私……秋一くんのことが好き。ずっと前から、そう思ってた。」美術室に、静かな告白の響きが落ちる。外の木々を渡る風の音すら遠く感じられるほど、胸が締め付けられた。
私はすぐに返事をしようと口を開きかけた。けれど、声が出なかった。頭の中で言葉が渦を巻く。「ありがとう」と言うべきか、「そんなの無理だ」と距離を取るべきか。だが、どれも自分の本心とは違う気がしてならなかった。
「……私なんかで、いいのか。」ようやく絞り出した声は、情けないほど小さかった。
円華は一歩近づき、首を横に振る。
「『私なんか』なんて言わないで。私は、秋一くんだから好きなんだよ」
その言葉が、胸に深く突き刺さる。事故で車椅子の生活になってから、自分を卑下することは習慣のように染みついていた。けれど円華の眼差しは、それを許さない。
「昨日の絵、見たときに思ったんだ。私が描きたいのは“弱そうに見える秋一くん”じゃない。私と一緒に笑ってくれる秋一くん。だから……これからも隣にいてほしい」彼女の言葉は、真っ直ぐで揺るがない。私は俯き、膝の上で拳を握った。
――隣に、いてほしい。
その願いに応えられるのだろうか。自分は彼女に何を与えられる? 支えるどころか、逆に支えてもらってばかりだ。そんな不安が、胸を押しつぶしそうになる。
けれど、昨日の絵が脳裏に浮かんだ。二人で並んで笑う姿。あれは夢でも幻でもなく、円華が「こうなりたい」と願って描いたものだ。ならば、その願いを否定することは、自分自身を否定することにも繋がる。
「……私は、怖い」正直に吐き出すと、円華はじっと耳を傾けてくれた。
「好きって言われて、すごく嬉しい。でも同時に、自分にはそんな資格があるのかって考えると、どうしようもなく怖くなる。」言葉を探しながら、私は視線を上げる。円華の目は涙に揺れながらも、強い光を宿していた。
「資格なんて、いらないよ」
「……え?」
「私が好きなんだから、それでいいの。秋一くんは“いるだけで”私に力をくれるんだよ。」彼女の声は優しく、けれど決して揺らがない。私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、深く息を吸った。
「……私も、円華のことが好きだ」その瞬間、円華の瞳が大きく見開かれ、やがて喜びに濡れていく。
「本当に……?」
「ああ。本当だ。まだ不安もあるし、どうしようもなく弱い部分もある。でも、お前と一緒にいると、それを少しだけ忘れられる。だから……これからも、隣にいてほしい。」自分でも驚くほど素直な言葉だった。
円華は堪えきれないように駆け寄り、私の手をそっと握った。小さな温もりが指先から胸へと広がっていく。
「ありがとう……秋一くん」その声は震えていたが、確かな幸せが込められていた。
夕陽が窓から差し込み、二人を黄金色に包み込む。静かな美術室で、私たちはしばらく言葉を交わさずにいた。ただ互いの存在を確かめるように、手を握り合ったまま、時を重ねていった。
――昨日の絵の中の二人が、今ここにいる。そんな実感が、胸の奥で静かに灯っていた。




