第十九話第三章
数日が過ぎ、私は再び美術室の扉を開けていた。放課後の廊下は冷たい空気に包まれていて、窓から差す夕陽が赤い帯を落としている。その光を背に、円華はすでに準備を整えていた。イーゼルの前で鉛筆を握り、私が来るのを待っていたかのように顔を上げる。
「来てくれたんだ」
「……まあ、少しくらいなら」
そう言うと、円華は安心したように微笑み、椅子を指さした。私は車椅子をその位置に寄せ、背筋を正す。以前よりは緊張していなかった。むしろ、この静かな時間を少し楽しみにしている自分に気づいていた。
「今日も、じっとしててね」
「分かった」
鉛筆の音が再び室内に響く。彼女の視線が何度も私をなぞり、紙の上に線を落としていく。光と影を追いかけるように、時に素早く、時に慎重に。私はその様子を眺めながら、ふと問いかけた。
「……描いてる時、どんな気持ちなんだ?」
「うーん……そうだな。見ているものを、そのまま形にするんじゃなくて、その人の奥にあるものを探してる感じかな。」円華は手を止めずに答える。まっすぐで、迷いのない声だった。
その言葉が胸に落ちる。自分の奥にあるもの――それを誰かが見ようとしていることが、不思議な安心を与えていた。今まで避けてきた視線なのに、円華のまなざしは違う。見られているというより、受け止められている感覚に近かった。窓の外の空が群青に変わり始める頃、円華はようやく鉛筆を置いた。小さく息をつき、手を膝の上に重ねる。
「今日はここまで」
「……そうか。見せてはくれないんだよな」
「うん、まだ」円華は少し照れたように笑った。その笑顔を見ていると、まあ仕方ないかと自然に思えてしまう。
教室を出ると、冷たい風が頬を撫でた。夜が近づく空の下、私たちは並んで校門へと向かう。次にまた彼女が描く時、どんな自分が紙の上に現れるのか――その答えを知るのが、少しだけ楽しみになっていた。
学校からの帰り道、円華は私の車椅子の後ろに回り込み、ためらいなく取っ手を握った。
「押してもいい?」
「……重いぞ」
「大丈夫。慣れてるから」
彼女の笑顔には冗談めいた軽さがなく、本気でそう言っているのが分かった。私は抵抗する理由を失い、そのまま彼女に任せた。車輪が軽やかに進み、段差に差しかかるたびに彼女が力を込める。前なら苛立ちや恥ずかしさを覚えていたはずなのに、不思議と今日は素直にありがたいと思えた。
やがて家の前に着く。古い二階建てで、両親は共働きのため帰りは遅い。玄関先で円華は手を離し、「ここでいいね」と微笑んだ。
「ありがとうな」
「ううん、私の方こそ。明日も描けるといいな」軽く手を振り、彼女は帰っていった。背中が角を曲がるまで見送ってから、私は鍵を開けて家に入る。
玄関を抜け、車椅子を操作してリビングへ。テーブルの上には朝のまま置かれたカップがあり、カーテンの隙間から夕暮れの光が差し込んでいた。私は深く息をつき、天井を見上げる。
「……見せられないか」美術室での円華の言葉が頭をよぎる。彼女は迷わず断言していた。まだ完成していないから、見せられないと。その姿が、なぜか心に残っている。
冷蔵庫から水を取り、コップに注いで口に含む。冷たさが喉を通り抜けるたび、今日の光景が浮かんでは消える。真剣に鉛筆を走らせる横顔、軽やかに車椅子を押す背中。どれも今までの自分の生活にはなかったものだ。
「私の奥にあるものを描く」――あの言葉が耳に残っていた。奥にあるものなんて、自分でも見つけられていないのに。けれど彼女は迷いなく、そこを目指している。
ソファに身を預け、窓の外を眺める。街灯が灯り始め、帰宅する人々の影が行き交う。以前なら、この景色の中で自分はただ置き去りにされている気がしていた。だが今は、ほんの少し違う。円華が背中を押してくれたせいだろうか。
「……次も、行ってみるか。」独り言が静かな部屋に溶ける。答えは風に消えたが、心は確かに少しだけ軽かった。
玄関の戸を閉めると、ちょうど母の声が台所からした。
「秋一? おかえり。今日は早かったのね」
「ただいま。うん、ちょっと急いでただけ。」
私が車椅子を操作してリビングに入ると、母はエプロン姿のまま鍋をかき回していた。夕飯の支度らしい。父はまだ仕事中で帰宅は遅いだろう。
「学校はどう?困ったことはない?」
「……特には。友達に少し手伝ってもらったぐらいかな。」
「そう、よかった」母の顔に安心が浮かぶ。私はそれ以上詳しく言わなかった。円華が車椅子を押してくれたことは、なぜか胸の内にしまっておきたかったからだ。夕食を終え、母が洗い物をしていると、玄関のチャイムが鳴った。珍しい時間帯に誰か来たと思い、私は不思議に感じながら応じた。
ドアの外に立っていたのは、制服姿の円華だった。
「あ、こんばんは。突然ごめんね」
「……常陸?」
「さっき帰るときに言い忘れちゃって。明日、放課後の美術室、またお願いできるかなって」月明かりを背にした彼女は、少し照れくさそうに笑っていた。
「わざわざ来てくれたのか。」
「うん。電話より直接の方が伝わるかなって思って。」私は思わず苦笑する。彼女らしいと思った。母が台所から顔を出し、驚いたように目を丸くした。
「あら、秋一のお友達?」
「こんばんは。えっと、常陸円華です。同じクラスで……。急にすみません。」円華が頭を下げると、母は柔らかく笑った。
「どうぞ上がっていって。お茶くらい出すわ」私は慌てて首を振る。
「いや、そんな。すぐ帰るんだろ?」
「うん。でも、お母さんありがとうございます。」彼女は丁寧に礼をして、再びこちらに向き直った。
「じゃあ、また明日。今度はもっとしっかり描かせてね」
「……ああ、分かった」
軽やかに手を振り、円華は夜道を駆けていった。残された私はしばらくその背中を眺めていた。母が横で「元気な子ね」と小さくつぶやく。私は曖昧に頷き、胸の奥に妙な温かさが広がっていくのを感じていた。




