第十一話第五章
居間での一人練習を終え、タクトをそっと机に置いた私は、汗ばんだ手を拭いながら深く息をついた。音の形が少しずつ手に馴染んできた気がする。孤独の中で試行錯誤してきた時間が、確かに自分の中に積み重なっているのがわかった。
そのとき、廊下から元気な足音が響いた。ドタドタと軽快なリズムで、誰かが駆けてくる。振り向くと、桃子だった。セミロングの髪が揺れ、赤いリボンが光を受けて小さく輝く。
「應正くん! 今日も練習してたんだね!」
桃子は息を切らしながら、でも笑顔を絶やさずに私の前に立った。部屋の空気は一瞬で明るくなる。私は少し照れくさくなりながらも、タクトを握り直す。
「うん、ちょっと…ね」私は手元のノートを見せながら、自分が真似して練習してきたことを説明した。桃子は目を輝かせ、私の動きを真剣に見つめる。
「わあ…すごい!前より腕の動きが滑らかになってる!肩の力も抜けてるし、息のタイミングも自然だね」桃子の声に、思わず胸の奥が少し緩む。私の練習の積み重ねを、こんなに正直に評価してくれる人は久しぶりだった。
「でも…」桃子は目を細め、指先をタクトに沿わせて考え込む。「でもね…うーん、やっぱり西宮先輩の指揮と比べちゃうと…」
その一言に、心臓が一瞬止まったような気がした。西宮先輩――三年生で、部の中心を引っ張る存在。全国大会を目指すとき、部員たちを鬼のように指導した人。私がかつてヴァイオリンで打ちのめされ、指揮にも憧れたあの秋田荘司の話を思い浮かべたとき、彼女の存在は必ず比較対象に浮かぶ。
桃子はため息混じりに言う。
「應正くん、前より確かに上手くなってるんだけど…西宮先輩の指揮のキレや迫力と比べると、まだ少し…」
私はその瞬間、顔が熱くなるのを感じた。評価されることは嬉しいのに、同時にあの西宮先輩と比較されることに、複雑な気持ちがこみ上げる。過去の自分なら、こんな瞬間で萎縮してしまっただろう。だが今は違う。私はタクトを握り、桃子の視線を受け止めた。
「そ、そうか…まだ…だな」
言葉は小さく、控えめだったが、どこか確信めいた手応えもあった。孤独の中で練習してきた成果が、確かにここにあることを、自分でも感じていたからだ。
すると、その直後、居間のドアが開いた。勢いよく踏み込む音とともに現れたのは――西宮先輩だった。
「桃子、何してるの?」
その声に、私の肩の力が一気に抜けた。西宮先輩は冷静ながらも、全身から自然と指揮者としての存在感を放っている。短い髪の端まで神経が行き届いているかのようで、まるで空間全体を支配するかのようだった。
桃子は驚きのあまり一歩後ろに下がる。「せ、先輩!あ、あの…ちょっと應正くんの練習を見てただけで…」
西宮先輩は私に視線を向ける。その瞬間、私は過去のヴァイオリンの舞台袖で感じた緊張がよみがえるような、胸の奥の震えを感じた。しかし、今は一人で積み上げてきた時間がある。手元のタクトを握る指先に、自信のようなものが伝わっているのもわかる。
西宮先輩は短く、そして鋭く言った。「…なるほど、練習してるのね」
桃子はますます顔を赤らめ、慌てて説明を続ける。「はい!應正くん、前よりすごく上達してて…でも、先輩に比べるとまだまだかなって…」
その言葉に、西宮先輩は静かに笑った。笑いは優しいが、どこか厳しさも帯びていて、私の胸に熱が走る。
「比較は仕方ないわね。でも、頑張ってるのはちゃんとわかる。努力して、考えて、自分の体で試してる。そこが一番大事なのよ」桃子が息を呑む。私は西宮先輩の目を見て、頷く。孤独の中で積み上げた練習が、こうして評価されることに、胸の奥が熱くなる。
「…ありがとうございます」小さな声だったが、確かに自分の気持ちは伝わった。桃子もほっとしたように微笑む。西宮先輩は私を見たまま、軽く頭を傾けて言った。
「じゃあ、今日のところはここまでにしておきましょう。次は実際に吹奏楽に合わせて指揮してみるの。楽しみね」
桃子の目が輝き、私も自然と微笑む。過去の自分なら、西宮先輩の前で萎縮していたはずだ。だが今は違う。孤独の練習で培った自分の感覚がある。タクトを握る手に、ほんの少しだが自信の温もりが残っていた。
居間に春の光が柔らかく差し込み、三人の間に静かに空気が流れる。過去の挫折も、比較する気持ちも、すべてここに繋がる。桃子の明るさ、西宮先輩の存在、そして私の積み上げた努力。それが、私を少しだけ大きく前に押し出してくれたのだった。
部室のドアを開けると、吹奏楽部のメンバーが練習用の譜面を前に並んでいた。木管、金管、打楽器。それぞれの位置を確認しながら、私は軽く息をついた。机の上に置いたノート、そして自宅で何時間も繰り返してきたタクトの動きを思い返す。孤独の練習は、ここで初めて形になる瞬間を迎えるのだ。
桃子がニコニコと私を見上げる。
「應正くん、がんばって!」
彼女の声に、胸の奥が少し緩む。孤独の中で培った自信を、ここで一度ぶつけてみよう。タクトを握る手に、自然と力が入る。
「じゃあ、始めます」
深く息を吸い、肩の力を抜く。目の前に広がる吹奏楽部員たちの視線を感じながら、私はタクトを振り下ろした。初めは小さく、控えめな振り。だが、体が覚えている感覚は確かだった。息の流れ、腕の角度、指先の微細な動き――すべてが、居間で何度も繰り返したものだ。
「1、2…」
桃子が横で息を合わせるように手を叩く。私の指揮に合わせ、メンバーが一音ずつ音を出す。最初の数小節はぎこちなかったが、体の奥で覚えた感覚が徐々に演奏を引き寄せる。タクトの先から、音がまとまり、空気が振動する。
「ああ……これが…」
胸の奥で、かつて折れた自分が震える。ヴァイオリンを抱えて舞台袖で固まったあの夜とは違う。今は誰も私を押さえつけない。自分の意志で音楽を作り上げられる。この感覚は、孤独の中でしか得られなかったものだ。
部員たちも徐々に呼吸を合わせ、低く揺れる金管、軽やかな木管、確かな打楽器のリズムが、私の指揮に従って踊る。私は微細な動きで強弱をつけ、表情でテンポを伝える。過去の自分なら、ここで緊張に押し潰されて指揮棒を落としていただろう。しかし今は違う。孤独の練習が、体に染み付いている。
部室の隅で西宮先輩が腕を組んで立っている。普段の冷静な眼差しに、ほんのわずかな変化が見えた。目が…少しだけ、ぎらついている。私が音をまとめ上げ、部員たちを動かすたびに、その鋭い視線が私を追っていた。
「……まさか、ここまで?」
先輩の心の声が、空気に漏れるわけではないが、背中で感じるような気がした。嫉妬――いや、厳密に言えば自分が部を引っ張る立場としての焦りだ。私が初めて指揮するこの瞬間、部員たちが私の指示で音を出すたびに、先輩の胸の中で微妙な感情が渦巻いているのがわかる。
「もっと、木管を柔らかく…金管は少し前に出して…」私の細かなジェスチャーに、部員たちが素直に従う。思わず微笑む桃子。彼女の目が輝き、手を少し振って息を合わせる。
そのとき、西宮先輩が小さく舌打ちをしたような気がした。私の耳には届かないが、空気が一瞬変わる。嫉妬の匂い――確かにそれは私の背中にまとわりついた。私の心が少しざわつく。しかし、それも悪くない。これまでの私は、周りに合わせることしかできなかった。今は自分の意思で、音を作っている。
曲が進むにつれて、私の指揮は自然になった。強弱、テンポ、抑揚、すべてが体に染み込んだ動きで伝わる。部員たちの音は滑らかになり、空間に流れる旋律は、まるで生き物のように躍動した。桃子の横顔をちらりと見る。息を合わせ、微笑む彼女の表情に、孤独の練習のすべてが報われた気がした。
そして曲のクライマックス。私は腕を大きく振り上げ、タクトを振る。体全体で音楽を抱え込み、部員たちに伝える。その瞬間、西宮先輩がゆっくり近づき、私の肩越しに目を細めた。瞳の奥には、予想外の感情が混じっている――嫉妬、そしてわずかな尊敬。私の動きに、彼女は心がざわついている。




