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第十九話第二章

 美術室に入ると、独特の匂いが鼻をくすぐった。絵の具と木炭と古いキャンバスの匂いが混じり合い、どこか懐かしいような重みを感じさせる。壁際には大小さまざまな石膏像が並び、窓から差し込む夕陽がそれらを立体的に照らしていた。


 「そこに座ってくれる?」円華は中央の椅子を指さした。私は少し迷ったが、車椅子ごとそこに収まった。姿勢を正すと、視線の先で彼女が準備を始める。


 イーゼルを立て、紙を固定し、鉛筆を数本机に並べる。指先が迷いなく動く。何度も繰り返してきた習慣のように整然としていて、その動作を眺めているだけで彼女の真剣さが伝わってきた。


 「……じっとしててね。」彼女はそう言い、鉛筆を握った。


 最初の線が紙に走る。軽やかな音が静かな部屋に響く。彼女の瞳は鋭く、時に私を見、時に紙へ視線を落とす。ほんの一瞬の仕草や影の形を捉えようと、何度も首を傾け、目を細める。


 私は居心地の悪さを覚えた。誰かに見られることは、ずっと避けてきた。ましてや、失った足の先に向けられる視線には慣れたくなかった。けれど、円華の目は違った。哀れみも、興味本位の好奇もない。彼女はただ「形」を見ていた。そこにある輪郭と影、その奥にあるものを必死に探していた。


 鉛筆の動きは迷いがなく、時に紙を擦る音が強く響き、時に繊細に影を塗り重ねていく。肩越しに見えるその集中した横顔は、他の何も映していない。私を描くことだけに全てを注いでいる。


 ――本当に、描くのが好きなんだな。


 胸の奥に小さな呟きが浮かぶ。これほど真剣に自分を見つめられたことがあっただろうか。冷たい視線でも、同情でもなく、ただ存在を形にしようとするまなざし。それは、不思議なほど心をざわつかせた。


 「……少し首を上げてもらえる?」


 「こうか?」


 「うん、そのまま」彼女の声は柔らかく、しかし揺るがない。私は言われた通りに姿勢を整えた。


 時間が経つにつれて、私の中の居心地の悪さは次第に薄れていった。円華の鉛筆が紙の上で奏でる音が心地よいリズムになり、教室に響く静けさと混じり合う。まるで自分の存在そのものが、一枚の紙の上に静かに転写されていくようだった。


 やがて、円華は手を止めた。深く息を吐き、鉛筆を置く。額に少し汗が滲んでいる。


 「……今日はここまでにしよう」彼女は紙を私に見せようとはしなかった。だが、その眼差しは満足げで、同時にどこか照れたようでもあった。


「協力してくれて、ありがとう」


 そう言って笑った彼女の顔は、夕陽を受けて赤く染まっていた。私はただ小さく頷き、視線を窓の外へ向ける。空は群青に変わり始め、沈む太陽が最後の光を放っている。


 心の奥で、微かな温かさが灯るのを感じた。それが何なのかは、まだ分からない。だが少なくとも、今だけは――この時間を悪くないと思った。


 美術室の静けさを破ったのは、鉛筆が机に転がる小さな音だった。円華は深く息を吐き、軽く肩を回してから、目の前のスケッチブックを閉じた。その仕草に私は思わず口を開いた。


 「……で、どんなふうに描けたんだ?」自分でも意外だった。興味など持つはずがないと突っぱねてきたのに、口をついて出た言葉は好奇心そのものだった。


 円華は目を瞬かせ、そしてふっと微笑んだ。

 「まだ見せられないよ」


 「なんでだ?」


 「完成してないから。途中で見せちゃうと、形にならないんだ。……最後まで描き切って、初めて“あなたの絵”になる」


 彼女の声は冗談めいていなかった。本気でそう信じているのだと分かった。けれど、ほんの少し悔しさが胸に残る。自分がどう描かれているのか――それが怖くもあり、確かめたい気持ちも強くなっていた。


 「……そうか」短く答えると、円華は嬉しそうに頷いた。


 窓の外はすでに夕闇に沈みかけていた。二人で美術室を出ると、廊下は昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。靴音と車輪の音だけが響き、校門へ続く道に差しかかった。


 「甲斐くん、家はこっち?」


 「学校の近くだよ。歩いて十分」


 「いいなぁ。私なんて、県境からバスで毎日通ってるんだよ。片道一時間以上かかる。」円華は少し肩をすくめて笑った。その笑みは疲れを隠すものではなく、当たり前のことを口にしただけの素直さだった。


 「じゃあ、今日はバス停まで送る」


 「えっ、いいの?」


 「どうせ帰り道だよ」私はそっけなく言ったつもりだったが、円華はぱっと顔を明るくした。


 夕方の町は、通学帰りの生徒たちと買い物客で賑わっていた。制服姿の二人は、自然と目を引いた。だが円華は気にせず、楽しげに周囲を眺めている。


 「美術室の光って好きなんだ。窓から差し込む夕陽が、キャンバスや石膏像に反射して……時間が止まったみたいに感じる」


 「そういうもんか」


 「うん。今日もね、甲斐くんを見てると、窓の光と影がきれいに重なって……思わず鉛筆が止まらなくなっちゃった」


 彼女の言葉はまっすぐで、飾り気がなかった。私は何と答えていいか分からず、視線をそらす。足元のアスファルトに街灯の光が伸びて、車椅子の影と重なった。


 やがて、バス停の標識が見えてきた。屋根の下には数人の乗客が並び、冷たい風に肩を縮めている。円華は立ち止まり、振り返った。


 「ここまでありがとう。……また、描かせてくれる?」


 「さあな。」わざと曖昧に答える。だが円華は気にした様子もなく、むしろ安心したように微笑んだ。


 バスが到着し、ドアが開く。円華は小さく手を振って乗り込むと、奥の座席に腰を下ろした。窓越しにこちらを見つめ、もう一度笑みを浮かべる。その表情が夕暮れの残光に照らされ、静かに揺れた。


 バスが動き出す。私はその背中が遠ざかるまで目で追い続けた。


 ――「まだ見せられない」。


 彼女の言葉が頭の中で繰り返される。見たいのに見せてもらえない苛立ちと、完成するまで待ってみたいという妙な期待が、心の中で同居している。


 結局私は、その二つの感情を持ったまま、暗くなり始めた町を車椅子で進んだ。家まではすぐだったが、今日はいつもより長い道のりのように感じられた。

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