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第十九話第一章

 放課後の教室は、窓から射し込む西日で淡く染まっていた。机に残ったプリントや教科書が橙色に照らされ、静かな空気の中に埃が舞っている。私はその光景を、車椅子に腰かけたまま、少し斜めに眺めていた。


 甲斐秋一(かいあきひと)――私の名前だ。小学生の頃、事故で両足を失ってからというもの、生活は不便ばかりで、周囲との距離も自然と広がっていった。誰かが同情の眼差しを向ければ、私は心を閉ざし、腫れ物に触るような態度をされれば、さらに距離を取った。そうして残ったのは、必要最低限の会話と、いつもより広く感じられる孤独な空間だった。


 そのとき、不意に声をかけられた。

 「ねえ、甲斐くん。少し、いいかな」


 振り向くと、そこに立っていたのは常陸円華(ひたちまどか)だった。美術部に所属している彼女は、普段からスケッチブックを抱えている印象がある。肩まで伸びた髪を後ろでゆるく結び、制服の袖は少し絵の具の跡で汚れていた。おとなしい方だと思っていたが、その瞳は妙にまっすぐで、こちらを射抜くように見ていた。


 「……何の用だ」私はできるだけ冷たく返す。必要以上に関わりを持ちたくなかった。


 「実はね、デッサンのモデルをお願いしたくて」円華は、意外な言葉を口にした。


 「デッサン?」


 「うん。印象に残るものを描きたいの。私、まだまだ未熟だから……どうしても人の心に残る絵を目指したい。そのために、甲斐くんを描きたいと思ったの。」言葉は率直だった。けれど、私の心はざらりと逆立つ。


 「……そういうのは、他を当たればいいだろ」


 「でも、甲斐くんじゃなきゃ駄目なの」


 その瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。彼女は悪意からではなく、本気でそう思っているのかもしれない。だが、私にはその真っ直ぐさが重たく感じられた。


 「悪いけど、断る」短く言い捨てる。声が少し荒くなったのは、自分でも分かった。


 円華は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに表情を和らげ、静かに頷いた。

 「……そう。わかった。急にお願いしてごめんね」


 彼女はそれ以上何も言わず、スケッチブックを抱え直して席を離れた。残されたのは、橙色に沈む教室と、心の奥に微かに残るざらつきだけだった。


 私は窓の外を見上げる。夕陽は沈みかけ、街の影が長く伸びていた。彼女の言葉が、どうしてか耳の奥で何度も反響して離れなかった。


 次の日の放課後、教室に残ったのはまた私と数人だけだった。私は車椅子のブレーキをかけ、鞄に教科書を詰め込んでいた。昨日のことは、もう忘れたつもりだった。だが背後から「甲斐くん」と呼ぶ声がして、指先が止まる。


 振り返れば、やはり円華がいた。昨日と同じスケッチブックを胸に抱え、その瞳は真っ直ぐ私を見据えている。


 「……またか」呆れ半分に言うと、彼女は小さく頷いた。


 「昨日断られたけど、やっぱりお願いしたいの。私、本気だから。」


 「しつこいな。」


 「うん、しつこいと思う。でもね……私、甲斐くんを描きたいの。車椅子に座ってる姿じゃなくて、甲斐くんそのものを。」


 彼女の声は少し震えていた。だが、その震えの奥には強い熱が隠れている。私は思わず視線を逸らした。


 「勝手に言ってろ。俺はモデルなんてやらない。」


 「どうして?」


 「理由なんてない。ただ面倒なだけだ。」


 本当は、違う。私は見られることが怖いのだ。欠けたものをじっと観察され、線に写し取られることが耐えられない。どんなに綺麗な言葉で包まれても、結局は「不幸な人間を描きたいだけ」だと心が叫ぶ。


 「……わかった」円華は俯き、短くそう言った。

 きっと諦めたわけではない。けれど今はそれ以上踏み込まず、静かに背を向ける。その後ろ姿を、私は見送ることしかできなかった。


 教室には私だけが残った。夕陽が差し込み、床に長い影を落としている。


 ――どうしてあんなに必死なんだろう。


 机に肘をつき、頭を抱える。昨日も今日も、彼女はまっすぐに私を見た。あの瞳に、憐れみはなかった。ただ描きたいという衝動と、確かな意志だけがあった。


 私はずっと、不幸を測られる目に慣れてきた。哀れまれるより、遠ざけられるより、諦めて壁を作る方が楽だった。けれど、円華の視線はその壁を壊すように響いてくる。


 「……くだらない」口に出してみても、胸の奥のざわめきは消えなかった。昨日よりも今日の方が、強く。彼女の声も姿も、頭から離れてくれない。


 窓の外では夕焼けが赤く燃えていた。その色は、どうしてか円華の瞳と重なって見えた。


―――数日後の昼休み―――


 私は窓際の席で教科書を広げていた。視線は文字の上にあるのに、心は上の空だった。あの日以来、円華の顔が頭から離れない。結局彼女はそれ以上しつこく迫ってこなかった。だが、放課後の廊下で、校庭で、ふと目が合えば、彼女は必ず小さく会釈をしていく。それだけで、心の奥が妙にざわつくのだ。


 今日もまた、そんな瞬間があった。教室の扉を押し開けて入ってきた円華は、友人に呼ばれても一言答えるだけで、机にスケッチブックを広げて座った。真剣に鉛筆を走らせる横顔は、昨日も今日も変わらない。周囲の喧騒に溶け込まず、ただ目の前の紙に集中している。


 ――本当に描くことが好きなんだな。


 思わず心の中で呟いた。あの瞳に浮かんでいた光は、きっと本物だ。私をモデルにしたいというのも、気まぐれや同情ではなく、彼女の 「描きたい」という衝動の一部なのかもしれない。


 窓の外に目を向ける。冬の光は冷たく、校庭に長い影を落としていた。私の人生もまた、影ばかりだった。けれど、もし彼女のスケッチの中に自分の姿が残るのだとしたら……その影にも、わずかな意味があるのだろうか。


 胸の奥でそんな考えが生まれ、私は小さく息を吐いた。

 「……一度くらいなら」


 思わず口から零れた言葉に、自分で苦笑する。誰にも聞かれてはいない。だが確かに、今の私は、仕方なく……いや、ほんの少し興味を抱いていた。


 円華という少女が、何を見て、何を描こうとしているのか。もし、それを確かめられるのなら――協力してもいい。そう思い始めている自分に気づき、机の下で拳を握りしめた。


 放課後のチャイムが鳴り終えた教室には、ざわめきが徐々に薄れていく。部活へ向かう生徒たちの声が廊下に遠ざかり、残された静けさの中で私は鞄を閉じた。帰ろうとしたその時だった。


 「ねえ、甲斐くん」振り返ると、やはり円華が立っていた。スケッチブックを胸に抱え、制服の袖にはまた小さな絵の具の跡。けれどその瞳は昨日よりも落ち着いていて、まっすぐに私を見ている。


 「この前は断られちゃったけど……今日、少しだけでも時間ある?」

 彼女の声は静かで、それでいて不思議に強さを帯びていた。


 私はため息をつき、わざとぶっきらぼうに答える。

 「……少しだけなら」

 その一言に、円華の目がぱっと輝いた。無邪気な喜び方ではなく、ずっと待ち望んでいたものに触れたような安堵がそこにあった。


 「ありがとう。じゃあ、美術室に行こう」


 車椅子を押して廊下に出ると、夕陽が窓から射し込み、廊下の床を赤く染めていた。並んで進む足音と車輪の音が、妙に静かに響く。私の心臓もまた、少し早く鳴っていた。

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