第十八話最終章
「……佐竹殿が、我らを……」義親は報せを読み終えると、長く閉ざしていた瞼をそっと上げた。胸の奥に灯るのは、屈辱を経てもなお消えなかった誇りと、仙子と共に生き続けられるという安堵だった。
仙子はその報せを聞くと、静かに涙を流した。彼女の頬を伝うその滴は、悲嘆の涙ではなく、ようやく訪れた安息への喜びの証であった。
義親はその肩を抱き寄せ、低く囁いた。「……仙子。これで、また共に暮らせる。」仙子は小さく頷き、義親の胸に顔を埋めた。
摺上原での敗戦は決して忘れることのできぬ傷であった。しかし、佐竹家の庇護の下、二人の生活は再び続けられることとなった。屈辱の中にあってもなお、義親と仙子は寄り添い、共に歩む道を選んだのである。
夏の盛りを過ぎ、庭を渡る風はどこか涼やかさを帯びていた。戦の喧騒が遠のき、保証を得た義親と仙子の暮らしは、ようやく静けさを取り戻していた。だがその静けさは、決して忘却の上に築かれたものではない。摺上原の惨敗も、流した血の記憶も、二人の胸に深く刻まれていた。それでもなお、人は生きねばならぬ。義親も仙子も、そのことを痛感していた。
庭の中央には、かつて二人で手入れを重ねてきた大きな蝦夷松の盆栽が据えられていた。幹はねじれながらも力強く天を目指し、枝葉は濃く青々と広がっている。葉の先には朝露の名残がきらりと光り、まるで小さな宝珠が散りばめられているかのようだった。その姿は豪壮でありながら、同時にどこか寂しさを漂わせほのぼのと威厳を湛えていた。
仙子は両手に小さな水桶を抱え、蝦夷松の根元へと歩み寄った。足音は砂利を踏むたびにかすかに響き、その一歩ごとに庭の空気が柔らかく揺れた。義親は少し離れた縁側に腰を下ろし、その姿を見つめていた。
「……義親様。今日もよく陽を浴びております」仙子は小さな声で呟き、柄杓を取り出すと静かに水を掬った。水面は陽の光を受けて淡く煌めき、柄杓の先から零れ落ちる雫は糸のように細く、蝦夷松の根をしっとりと濡らしていく。
水が苔むした鉢の表面を伝い、深くしみ込む音が耳に優しい。仙子は何度も何度も同じ所作を繰り返し、蝦夷松に語りかけるように水を注いだ。その仕草には、この木をただの盆栽ではなく、大切な生の証として扱う想いが込められていた。
義親はしばし目を閉じ、深い呼吸をした。血に染まる戦場を思い返すと、肺の奥に鉄の味が蘇る。だが今、目の前には水の音、松の香り、仙子の柔らかな背中――すべてが静謐で温かなものであった。
「仙子」義親は低く声をかけた。仙子は振り返り、微笑を浮かべた。頬には庭の光が差し、彼女の横顔を柔らかに照らし出す。
「はい、義親様」
「……あの戦場を越え、こうしてまた共に庭に立てること。これほどの幸せがあろうか」
仙子は一瞬だけ視線を伏せ、それから再び義親を見つめた。
「わたしも……そう思っております。あの日、義親様が倒れるのではないかと、幾度も胸が潰れるようで……。今こうして、蝦夷松の傍らで水を注げるだけで、心が救われます。」その声は小さく震えていたが、確かな温もりを含んでいた。義親は静かに立ち上がり、仙子のそばへ歩み寄った。彼女の手から柄杓を受け取り、自らも水を掬い、枝葉の先にそっとかけた。水滴は細やかな光を反射し、松の葉がきらめく。
「この松も、我らと同じだ。風雪にさらされながらも、決して折れぬ。強さと同時に、孤独をも抱えて立っている」
「……だからこそ、義親様はこの松を大切にされるのですね。」仙子は義親の横顔を見つめながら囁いた。その目には尊敬と愛情が溢れ、長い沈黙の果てにようやく得られた平穏を守りたいという願いが滲んでいた。
義親は頷き、蝦夷松の幹にそっと触れた。硬くざらついた肌の感触は、戦場で握った刀の柄とはまるで違う。しかし確かに彼の手に、命の証を伝えていた。
「仙子。この松と共に、我らも長く生きよう」
仙子は小さな声で「はい」と答えた。涙がこみ上げたが、彼女はそれを堪えた。涙よりも、この一瞬を心に刻みつけたかった。
水桶の水が尽きるころ、蝦夷松は葉の先まで瑞々しく輝いていた。まるで新たな命を得たかのように、その姿は堂々と庭に立ち、風に葉を揺らしていた。仙子と義親はしばらく黙ってその光景を見つめていた。
戦がもたらした傷は消えぬ。だが、こうして水を注ぐたびに、その傷は少しずつ癒えてゆくのだろう。蝦夷松の下で二人が共に過ごす時間は、過去の痛みを和らげ、未来へと続く小さな希望となる。
やがて陽が傾き始めると、庭に長い影が落ちた。義親は仙子の肩に手を置き、彼女をそっと抱き寄せた。
「仙子。これからも共に、この松のように生きてゆこう。」仙子は静かに頷き、義親の胸に身を預けた。風が蝦夷松を渡り、葉音が二人を包み込む。それは戦場の鬨の声とは対極にある、安らぎの音であった。
こうして二人の新しい日常は、蝦夷松のもとで始まっていった。




