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第十八話第三章

 蝦夷松の葉を渡る風は、どこか凛とした気配を宿していた。光沢を帯びた針葉は夕陽を受け、金にも緑にも見える神秘の輝きを放っている。その前で、義親と仙子は向かい合い、互いの胸の内をさらけ出したまま、しばし言葉を失っていた。


 やがて義親は、静かに腕を伸ばし、仙子の細い肩を抱き寄せた。驚いたように仙子の身体が震えたが、すぐにその温もりに身を委ねる。頬は義親の胸に押し当てられ、耳には彼の鼓動が確かに響いていた。


 「仙子……」義親の声は低く、しかし揺るぎなかった。彼は胸に抱いた彼女の髪をそっと撫で、長く息を吐いてから言葉を続ける。


 「私は戦に駆り出されるたびに思う。生きて帰れるかどうかは分からぬと。だが……今日、おぬしの弱さを聞いて、私もまた弱いと悟った。おぬしを残して死ぬことが、何よりも怖い。」仙子は目を閉じ、彼の声に耳を澄ませた。その胸中で、張り詰めていたものが少しずつほどけていく。


 義親は、彼女をさらに抱き締める。力強くも優しいその抱擁には、決意が込められていた。


 「必ず、生きて仙子と暮らす。そして仙子と死にたい。どちらが先に逝こうとも構わぬ。ただ……死ぬときは、見送り、見送られてありたい。それだけは、私の揺るがぬ望みだ」


 仙子の喉が熱く締めつけられる。言葉が出ず、ただ嗚咽のような息が漏れた。涙が溢れ、義親の胸元を濡らす。


 「……義親様……」


 ようやく絞り出した声は震え、涙に濡れていた。だが、その眼差しは迷いなく彼を見つめていた。


 「私も……同じです。どのような運命でも構いません。ただ最後まで、義親様と共に……」


 義親は頷き、仙子の額に唇を寄せた。蝦夷松はその背後で、静謐に枝を広げ、二人の誓いを見届けていた。庭に沈む夕陽は次第に赤みを増し、寄り添う二人を深い影の中に包んでゆく。その影は一本の木の根のように重なり合い、離れることなく地に根ざした。


―――――――――――――――

 城内の広間は緊張に満ちていた。厚い畳に座した上級武士たちの視線が一斉に壇上へと注がれる。中央には、蘆名義弘あしなよしひろが威厳をもって座していた。年若き将軍ではあったが、その瞳には烈火のごとき決意が宿っている。


 「伊達は摺上原に軍を集め、我らの領土を侵す構えを見せている。これを座して待つことはできぬ。われらが先んじて打ち破るのだ」


 義弘の声が広間を震わせた。居並ぶ武士たちはざわめき、幾人かは賛同の意を示す。血気盛んな若武者にとって、伊達を討つ機会は待望の好機であった。


 しかし、義親は黙したまま視線を落とし、慎重に言葉を選んだ。やがて義弘が諸将に意見を求めると、彼は静かに進み出た。


 「殿。摺上原は地形にて伊達方に利あり。我らが軍を動かせば、多くの兵が無為に散ることとなりましょう。加えて領内の備えも薄れ、逆に弱点を晒す恐れがございます。新発田が包囲され郡山合戦で敗北した以上、今は兵を固め守りを強くし伊達を退けるべきかと存じます。」場は一瞬、重苦しい沈黙に包まれた。義親の言葉は正論であった。だが若き将軍の胸に燃えるものはそれを許さなかった。


 「義親、そちは臆するか。守りに徹して勝機を得られると思うのか。ここで怯めば、伊達に押し潰されるぞ。」義弘の眼光が義親を射抜く。広間の空気が鋭さを増す中、義親は頭を垂れた。


 「恐れながら……臆したわけではございません。ただ、領地を護るためには、戦を挑むより守り抜く策こそ肝要と愚考いたしました。」その一言に幾人かの重臣がうなずいたが、最終の決断は将軍にあった。義弘は長く黙考したのち、手を振って告げた。


 「もはや決した。摺上原にて伊達を討つ。……義親、おぬしもまた我が軍を支える柱である。反対の心あれど、従ってもらうぞ。」義親は深く息を吐き、膝をついて拝した。


 「御意。……領地を守るため、身命を賭して戦場に臨みます。」その声は静かでありながら、心の底には諦念と覚悟が混じっていた。己の意志は退けられた。だが主君を支えることこそ、古賀家の血を引く者の務めであった。


 広間の外に出たとき、義親の胸には冷たい風が吹き抜けた。戦を避けられぬ以上、せめて生きて戻り、仙子の待つ家へ還る――その思いだけが、彼を支えていた。


 夜㪅けの屋敷には、しんと静寂が満ちていた。広々とした長い廊下の奥からは、わずかな風が障子を鳴らし、庭の池の水面を渡る波の音がほのかに聞こえてくる。障子の外から差す月明かりが、広間の畳を白く照らし、そこに座す二人の影を柔らかく浮かび上がらせていた。


 義親は甲冑の上に直垂(ひたたれ)を羽織り、静かに座していた。漆黒に塗られた胴丸の縁には、月光を受けて青白い光が走る。戦場を前にして身を固めた姿であったが、表情は武人としての威容ではなく、ひとりの夫としての優しさと決意が滲んでいた。その傍らに仙子が膝を寄せ、潤んだ瞳で彼を見つめている。彼女の細い肩はわずかに震え、吐き出す息が胸の奥に重く溜まっているのが、義親には痛いほど伝わった。


 「……やはり、参られるのですね。」仙子の声は細く震えていた。その問いには答えを知りながら、どうしても確かめずにはいられぬ切実さが滲んでいた。義親はしばし黙したまま、庭にかかる月を仰ぎ、やがて静かに頷いた。


 「摺上原に伊達の軍勢が迫る。主君の命には従わねばならぬ。戦に臨めば……生きて戻れる保証はない。」その言葉は冷たい現実であり、仙子の胸に重く沈んだ。彼女は唇を噛み、俯いた。しだいに視界が涙で滲み、畳の目すら曖昧に見えなくなっていく。肩が小刻みに震えるのを見て、義親はたまらず彼女をそっと抱き寄せた。


 「仙子、怖がらずともよい。」低い声が耳元に落ち、彼女の心を震わせる。義親はその細い背を掌で包むように撫で、続けた。


 「私は約束したであろう。必ず生きて帰り、おぬしと共に暮らし、共に死ぬと。」その言葉は、戦の不安を覆すにはあまりに細い糸であったかもしれない。だが仙子にとっては、唯一心を支える柱だった。強くも優しい抱擁に、彼女の心の張り詰めた糸が少しずつほどけていく。彼女は義親の胸に顔を埋め、堪えきれぬ涙を落とした。鎧に染み込むその温かさを、義親はただ静かに受け止めた。


 やがて義親は袖の下から小さな桐の箱を取り出した。手のひらに収まるその箱は長年使い込まれ、飴色に艶を帯びている。箱を開けば、そこには深い翡翠の光を宿した香炉が収められていた。丸みを帯びた器の表面には細やかな唐草模様が刻まれ、灯りの下で幽玄に光を返す。古賀家に代々伝わる宝であり、義親が殊のほか大切にしてきたものだった。


 「これは我が家の宝、翡翠の香炉だ。今日よりおぬしに託す。」仙子は驚きに目を見開いた。胸の奥から思わず声が溢れる。


 「そ、そんな……義親様が代々守り抜かれてきたものを、私などに……。」義親は首を振り、静かに香炉を彼女の掌に置いた。翡翠は月の光を受け、深緑の中に青と金の光をたたえている。掌に伝わるひんやりとした感触は、不思議と確かな温もりのようでもあった。


 「これに香を焚き、香りを絶やさずにいてほしい。私が戦場を越えて帰るとき、この匂いを目印にして必ず戻る。……だから、決して手放すでない。」その言葉を告げる義親の眼差しは、戦を前にした武士のものではなく、ただ仙子を愛する男のものだった。


 仙子は震える手で香炉を抱き締めた。香炉の中に入れられた沈香を少し焚くと、仄かに甘く、深い香が夜の闇に広がった。薄い煙は淡い糸となり、二人の間に漂いながら、まるで見えぬ絆を結ぶかのように静かに昇っていく。


 「必ず……お待ちしております。どれほどの時を経ても、香りを絶やさずに……」仙子の声は涙に濡れ、途切れそうになりながらも、その決意は揺るぎなかった。義親は微笑み、仙子の頬をそっと撫で、涙を指先で拭った。


 二人は互いに顔を寄せ合い、言葉よりも深い想いを抱き締め合った。義親の胸に仙子の心臓の鼓動が重なり、二人の息はひとつに混じり合う。どれほどの時が過ぎたか分からない。ただその抱擁だけが、互いの存在を永遠に刻もうとしていた。


 月明かりの下、翡翠の香炉から立ち昇る香は、二人の誓いを静かに見守るように漂っていた。香りは壁を越え、庭を越え、屋敷の外へと流れていく。それはやがて義親が戦を終えて戻るその日まで、仙子の傍らに絶えず寄り添うことを約束しているかのようであった。

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