第十八話第二章
小道を戻る途中、仙子は袖の内に忍ばせていた布を取り出した。深い藍色に染め上げられた細布で、ひと月の間、彼を想いながら指先で縫いを重ねたものだった。
「……これを、義親様に」
差し出す手はかすかに震えていたが、その瞳は揺るぎなかった。義親は驚いたように受け取り、掌でそっと広げる。布は夕暮れの光を受けて静かに輝き、確かに彼を待つ者の証であった。
「仙子……」
短く名を呼ぶ声に、押し殺した感情がにじむ。戦へ赴くたび、戻れぬかもしれぬ思いが胸を掠める。だが、それを口にすれば仙子の不安を煽るだけだ。義親は笑みを作り、布を懐へ収めた。
「ありがたく頂こう。これがあれば、どの戦場でも迷わぬ」
仙子は深く頭を垂れ、彼の言葉を信じるように目を閉じた。義親はその姿を見つめ、胸の奥で募る惜別を静かに飲み込み、ただ強く布を握りしめた。
夜の帳がすっかり落ち、広い屋敷の座敷には行燈の明かりがひとつ灯るだけだった。木の梁の影が長く伸び、静まり返った空気が二人を包んでいる。
義親は畳の上に鎧の部品を並べ、ひとつひとつ丁寧に拭っていた。戦支度に欠かせぬ習いである。仙子はその傍らに座し、針を手にしながらも、実際にはほとんど縫い物の針目が進んでいなかった。胸の奥でせり上がる不安が、手を震わせていたからだ。
「明日の朝には発つのですね……」仙子の声は細く、行燈の灯がわずかに揺れたように感じられた。義親は手を止め、しばし沈黙したのち低く答える。
「ああ。召集が下れば背を向けることはできぬ。だが……」
言いかけて、彼は仙子を見た。その眼差しには、強さと同じだけのためらいが宿っていた。戦に向かう者の覚悟と、残してゆく者への惜しさがせめぎ合っていた。
仙子は針を置き、膝に両手を重ねる。震えを悟られまいと背を正したが、声にはどうしても滲んでしまう。
「義親様……どうか必ず、この家に戻ってくださいませ。私は……待ちますから」
その言葉に義親の胸が熱くなる。己を待つ者がいる――それはどれほどの力となることか。彼は迷うように視線を落とし、やがて仙子の手を取った。
「必ず戻る。……この屋敷も、おぬしも、私の帰る場所だから」
仙子は唇を震わせ、小さく頷いた。広すぎる座敷も、その瞬間だけは二人の息遣いで満たされ、外の夜風すら届かぬほどに温かな静寂に包まれていた。
翌朝、陽はまだ低く、庭に淡い光が差し込みはじめたばかりだった。義親は馬の鞍を確かめ、深く息を吐いた。鎧は纏わず、普段着に裃だけを整えている。その姿を仙子は縁側から見送り、胸の奥に不安を抱えながら両の手を合わせた。
「……必ず戻ってくださいませ」仙子の小さな声が背を押す。義親は振り返り、短く頷いてから馬に跨がった。
村を抜け、旗本の屋敷に着いたのはまだ朝の涼気が残る刻だった。広々とした門前にはすでに数騎の馬が繋がれ、召集に応じた武士たちが出立の準備を進めていた。義親は馬を降り、足を踏み入れる。
「古賀か。遅れて参ったな。」迎えた旗本は険しい眼差しを向ける。義親は深々と頭を下げ、声を整えた。
「恐れながら……このたびの召集、辞退の儀を願い上げます」場の空気が一瞬にして張り詰めた。旗本の眉が跳ね、周囲の武士たちがざわめく。
「なにを言うか。戦は領主の命。汝の立場で背を向けるとは、忠義を失うも同然ぞ」義親はなおも頭を下げ、言葉を絞り出す。
「無論、忠義を忘れたわけではございません。しかし、家を、村を守る者もまた必要にございます。加えて……この身、近頃の戦にて傷を負い、長陣に耐え得ぬと医師より申されました」
嘘ではなかった。刀傷はすでに癒えつつあったが、深手であったことに違いはない。義親はそれを理由に掲げ、必死に頭を垂れる。
旗本はしばし黙し、鋭い視線を落とした。やがて声を荒らげる。
「戦を嫌い、ただ安きに流れようとする者と同じに映るぞ。古賀殿、汝の言葉、真か」義親は静かに顔を上げ、まっすぐに応えた。
「真にございます。命を惜しむためではござらぬ。ただ、ここを離れれば守るべきものを失う。領地にとっても不利益と存じます」
その真剣な眼差しに、旗本は目を細めた。長い沈黙ののち、重く息を吐く。
「……よかろう。ただし、次に召された折は辞退は許さぬ。それを肝に銘じよ」
義親は深く礼をし、その場を退いた。屋敷を出て馬に跨がったとき、背に流れる汗が冷たかった。ようやく得た許し――だがそれは薄氷の上に立つようなものであることを、義親は痛いほど理解していた。
帰路、朝日が昇り、田畑を黄金色に染めていた。義親は遠くに見える屋敷を思い浮かべ、胸中で静かに呟く。
「……仙子のもとへ、戻らねば」
屋敷へ戻った義親を迎えたのは、縁側に立つ仙子の安堵の面差しだった。彼女の瞳が揺れ、義親の姿を確かめると、ようやく張り詰めていたものが解けたように微笑む。義親は軽く頷き、言葉少なに「許された」と告げる。それだけで仙子の目尻に涙が光った。
二人はしばし言葉を交わさず、庭へと歩みを移した。庭の奥には、大きな鉢に収められた一株の蝦夷松があった。幹はねじれながら天を指し三尺をゆうに超えるだろう。枝は丹念に手を入れられ、左右に広がる姿は崢嶸たる山岳を思わせた。針葉は濃緑に冴え、陽を受けて翡翠のように煌めきながらも、どこか寂しげに風に揺れている。
義親と仙子にとって、この蝦夷松はただの盆栽ではなかった。戦から戻るたび、二人で手入れを重ねてきた、年月と想いの象徴である。
仙子は小さな鋏を手に取り、枝先の余分な芽を慎重に摘んだ。その仕草は静かで、祈りのように一途だった。義親も隣に腰を下ろし、根元の土をほぐしながら指先で確かめる。
「……今年もよく育ったな」
義親が低くつぶやくと、仙子は頷いた。
「はい。けれど、この松はいつも……どこか寂しそうに見えます」
仙子の言葉に義親は目を細め、枝の広がりを仰ぐ。確かに、豪奢な姿の中に静かな孤高が宿っていた。強さと同時に、誰にも寄り添わぬ峻厳な気配。まるで戦場を生き抜いた武士の姿そのもののように。
「寂しさを纏うゆえに、威厳を失わぬのだろう」
義親はそう言い、枝先をそっと整える。その横顔を見ながら、仙子は胸の奥が締め付けられる思いがした。彼もまた、この松と同じ孤高を背負っている。けれど、彼はこうして戻り、自分の隣にいる。
風が通り、蝦夷松の葉がさらさらと鳴いた。その音はまるで遠い山嶺の吹雪のごとく冷ややかでありながら、どこか温かく、二人の間を静かに結んでいた。
義親は立ち上がり、枝ぶりを遠目に眺めて口を開く。
「いずれ、この松も我らの年を越え、なお残ろう。戦よりも、権よりも、こうして大切に守るものの方が、真に永きに残るのかもしれぬな」
仙子はその言葉を胸に受け止め、静かに微笑んだ。彼の隣で、共にこの松を見守り続けたい――その願いが、庭に響く蝦夷松の音色と重なっていった。
蝦夷松の葉が風に鳴り、夕陽の光を浴びて翡翠の針葉が煌めいた。庭は荘厳な静けさに包まれ、ただ二人の影だけが松の根元に寄り添っていた。
仙子は膝を抱えるように座り、視線を松に向けながらも、心は隣にいる義親に絡みついていた。寂寞の気配を放つこの盆栽の姿は、彼の背負う孤高と重なって見え、胸の奥を掻き立てる。耐え忍んできた思いが、抑え切れず言葉となって溢れた。
「……義親様」呼びかけながら、仙子はうつむいた。声が震え、頬が熱くなる。
「私……強くあろうとしました。けれど、本当は……とても弱いのです。待っている間も、恐ろしくて……。もう少し、私のことを子どものように扱ってくださっても構いません。どうか……甘えさせてくださいませ」言い終えると、胸が苦しくなった。恥ずかしさよりも、切実さの方が勝っていた。戦へ赴く彼に縋りたくて、ただ傍にいたくて。
義親は黙って仙子を見つめていた。その視線に耐えられず、仙子はさらに俯いたが、やがて肩に大きな手が置かれる。温もりが伝わり、全身が震えた。
「仙子……おぬしが強かろうと弱かろうと、私には変わらぬ。むしろ、弱さを見せてくれることが、何よりも嬉しい。」その言葉に仙子は顔を上げ、潤んだ瞳で義親を見つめた。胸の奥に積もっていた孤独が、少しずつ溶けていく。
蝦夷松は変わらず威厳を湛えていたが、その根元で寄り添う二人には、確かに温かな絆が芽吹きはじめていた。




