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第十八話第一章

 山裾に抱かれた小さな村は、戦火の気配からいくぶん遠ざかっていた。畑には早苗が青さを増し、軒先には乾された洗濯物が風に揺れている。けれど浅間仙子(あさませんこ)の胸のうちには、常に張り詰めた気配が漂っていた。


 左頬に走る大きな傷跡は、彼女の幼き日の火事の記憶を刻みつけている。それは村の人々にとっても忘れがたいものだった。幼いころから「不吉」とささやかれ、彼女は長く他人の輪の外に立ち続けてきた。二十二歳になった今でも、井戸端での会話に混じることは少ない。笑い声の輪は、いつも仙子のひと足先で途切れる。


 それでも彼女の目は、静かに人の暮らしを見つめていた。手先は器用で、裁縫や織り物に秀でている。だからこそ、戦に駆り出された者の鎧下や衣の繕いを任されることも多い。家の奥で針を進める時間だけは、蔑まれた声を忘れられる。


 ――古賀義親(こがよしちか)


 その名を心に浮かべると、張り詰めた胸の奥に微かな灯がともる。二十五の上級武士。領主の信頼厚く、月前に戦へと赴いた男。彼が出立する折に「戻れば、また話を聞かせてほしい」と言われた。短い言葉であったが、仙子にとってそれは誰よりも大切な約束になった。


 あれから一月。


 彼の姿を思い描きながら、仙子は庭の縁側に腰を下ろす。手元の針は休みがちになり、代わりに空を仰いでは雲の流れを追った。昼下がりの陽はやわらかく、庭先の柿の若葉がきらめいている。だが心は落ち着かない。戦場は遠くても、命がけの日々に変わりはない。無事に帰れるのか、それとも――。


 井戸端の噂が耳に入るたび、胸が締めつけられた。「今度の戦は長引くらしい」「討たれた者も多い」と。けれど仙子は信じるしかなかった。義親は必ず戻る。そうでなければ、この胸に芽生えた温もりをどうしてよいか分からない。


 縁側に置かれた小さな箱には、彼のために織り上げた布が収められている。浅い藍色に染め、糸の目は細かく揃えた。粗末な贈り物に過ぎないかもしれない。だが仙子にとっては、心を尽くした証だった。


 夕暮れが迫るたびに、村の道を歩む人影に目を凝らす。まだ帰らないか、まだ現れないかと。心が揺れ、頬の傷跡が冷たく疼く。誰かを待つことなど、これまでなかった。けれど今は、その時を指折り数える自分がいる。


 仙子の胸の奥では、ひと月分の静かな祈りが積み重なっていた。義親が再びこの村へ戻り、その声を聞かせてくれる日を夢見ながら――。


 夏の盛りを過ぎ、風に涼しさが混じりはじめた夕刻。村の道を叩く馬の蹄の音が近づいてきた。乾いた土を踏み鳴らすその響きに、人々は畑の手を止め、顔を上げる。


 縁側で針を動かしていた仙子も、思わず耳を澄ませた。胸の奥が熱く脈打つ。待ち望んでいた音――そう直感する。


 道の向こう、夕陽を背に歩む武具の影。鎧は土と煤にまみれ、肩にはいくつもの傷が刻まれている。だが背は真っすぐで、歩みは揺るがない。その名を心の中で呼んだ途端、視界が滲んだ。ひと月もの間、祈りだけを支えに暮らしてきた男が、確かに帰ってきている。


 村人たちが道の両側から声をかけた。「お帰りなされた!」「無事で何より!」と笑顔が広がる。義親は短く頷き返すだけで、まだ表情を硬く保っていた。戦場の土を纏った体には、穏やかな日常は容易には馴染まないのだろう。


 仙子は縁側に立ち上がり、胸に手を当てた。迎えに出たい。けれど頬の傷を思えば、人目に立つことが怖くもあった。いつもなら躊躇いが勝つはずだった。だがそのとき、義親の視線がふとこちらに向いた。


 まっすぐに、揺るぎなく。夕陽を受けた瞳は鋭さの奥に温かさを宿し、仙子の心を突き動かした。


 「……行かねば」小さく息を吐き、足を踏み出す。ぎこちない歩みだったが、目を逸らすことはなかった。


 やがて義親は村人たちの囲みを抜け、仙子の前に立つ。鎧の袖口に巻かれた布には乾いた血の跡があり、胸の板金には戦いの痕が深く刻まれていた。それでも彼は倒れていない。今ここに、確かに生きて立っている。


 「……お帰りなさいませ。」震える声が、夕暮れの空気に溶けた。ひと月分の想いを押し包んだただ一言。


 義親はしばし見つめ、やがて小さく頷いた。固い面差しがわずかに緩み、低い声が返る。


 「ただいま戻った。……待たせてしまったな」


 その言葉を聞いた瞬間、仙子の胸に重く積もっていた日々がほどけるように消えていった。村のざわめきがまだ続く中、二人の間だけには静かな時が流れ、離れていたひと月の距離がゆっくりと埋まっていった。


 村人たちの声が背後に遠のき、夕暮れの空が紫を帯びはじめた頃、義親は仙子に目で合図を送った。仙子はわずかに頷き、二人は人影の少ない裏手の小道へと足を運ぶ。柿の木が並ぶ細い道は、まだ夏の名残を残しつつも涼しい風が通り抜けていた。


 戦の埃を纏った義親の歩みは重く、それでも一歩ごとに確かさがあった。仙子は彼の横顔をちらりと見やる。鋭さを帯びた目元に、微かな疲労の影。長い戦の帰還者であることを雄弁に物語っていた。


 沈黙がしばらく続いた。互いに言葉を探しているようで、足音と草葉のざわめきだけが響いた。やがて義親が低く口を開いた。


 「……変わらずにいてくれたな」その声に仙子は立ち止まり、胸に手を当てる。自分の存在を求められた気がして、頬の傷跡が熱を帯びた。


 「はい。ずっと……無事を祈っておりました」言葉は小さかったが、震えの奥には確かな想いがあった。義親は一瞬目を細め、やがて穏やかに頷いた。


 「戦場では、いつも生きて帰ることだけを考えていた。……ここに戻らねばならぬと。誰に嘲られようと、おぬしだけは違う目で見てくれると、信じていた」


 仙子の喉が詰まる。誰からも忌避の影を受けてきたこの頬の傷。だが義親だけは、その内側を見てくれる。ひと月の孤独と焦がれる想いが、一気に胸にこみ上げてきた。


 「……私は、ただ待っていただけです。義親様が帰ると、そう信じて」声を押し出すように答えると、義親の目に光が揺れた。彼は少しだけ歩み寄り、仙子の肩をそっと掴む。大きな手の温かさに、仙子の背が震えた。


 「その信じる心が、どれほど力となったか……仙子、おぬしにはわかるまい」名を呼ばれた瞬間、仙子の視界が滲んだ。村の喧騒はもう遠い。ここには二人の息遣いだけがあった。


 しばし見つめ合い、互いに言葉を失う。だが沈黙は苦しくなく、むしろ心を重ねるひとときのようだった。

 やがて義親は空を仰いだ。紫に染まる空の下で、その声は低くも確かに響いた。


 「戦はまだ終わらぬ。次にいつ呼ばれるかもわからん。……だが、戻るたびにこうしておぬしに会えるのなら、幾度でも生きて帰ろう」


 仙子は唇を噛み、堪えきれず小さく頷いた。夕風に柿の葉が揺れ、二人の影を優しく重ねた。

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