第十七話最終章
時は流れて一年と一か月後。雲雀は高三の冬、ついに受験を目前にしていた。あと一週間。カレンダーの赤い丸印を見つめるだけで、胸がざわつく。
教科書も参考書も、ページの端が擦り切れるほど繰り返した。眠気と戦いながら深夜まで机に向かった日も数えきれない。それでも不安は消えない。
――でも、ここまで来たんだ。
かつて授業をサボり、廊下をふらついていた雲雀が、今は「受験生」として机にかじりついている。窓の外の冷たい空気すら、背中を押してくれるように感じた。
(絶対にやってやる。努力は裏切らねぇ)
受験が終わった数日間は、ただ時間に押し潰されるように過ぎていった。合格発表の朝、雲雀はまだ夜が明けきらぬうちに制服の襟を整え、校舎へと足を運んだ。
吐く息は白く、心臓は試験のときよりもうるさく鳴っている。結果を見に行く前に、どうしてもやらなければならないことがあった。校舎の扉を押すと、まだ生徒は誰もいない。静まり返った廊下を歩く音が、やけに響く。向かう先は職員室。扉を開けると、机の上に並んだ書類やペン立てが朝の光を浴びて鈍く光っていた。先生たちはまだ登校しておらず、室内は無人だった。
雲雀はポケットから一通の封筒を取り出す。真っ白な便箋に、何度も書き直した文字が並んでいる。夏の補習の日、誰にも言えなかった自分の気持ちを初めて形にしたものだった。
――もし合格していたら、もう先生の生徒ではありません。そのときは、結婚を前提にお付き合いしてください。
震える手で机の上に封筒を置く。名前を記すか迷ったが、最後に一文字、確かに署名を残した。
(これでいい。これが、あたしの答えだ)
鼓動が止まらない。失敗すればただの笑い話かもしれない。それでも、努力を信じ抜いたこの一年を、もう隠しごとで終わらせたくなかった。
廊下に戻ると、少しずつ生徒の姿が見え始める。今日はいよいよ、合格発表の日。ポケットの奥で、置いてきたはずの手紙の感触をまだ指先が覚えていた。
その日の昼過ぎ、校舎の前のベンチに座っていた雲雀の携帯が震えた。画面には「佐伯」の名前。通話ボタンを押すと、開口一番、弾んだ声が飛び込んできた。
「雲雀!私、受かった! 第一志望、合格だって!」
彼女の志望した大学は、ネット上ですぐに合否が確認できる仕組みで、もう通知が来たのだという。電話口の佐伯は興奮で息が荒い。雲雀は思わず笑みをこぼした。
「すごいじゃん! おめでとう!」
「いやー、ほんと奇跡だわ!でも雲雀のおかげでもあるからな。あの夏から一緒に勉強して、やっぱり刺激になったんだよ」
佐伯の笑い声に、胸の奥がほんの少し温かくなる。けれどすぐに、自分の番がやってくることを思い出して緊張で胃が重くなった。
「ありがと。でも……あたしは、これからだから」
「大丈夫だって。あれだけやったんだ。絶対受かるって」
そう言われても、不安は拭えなかった。雲雀の志望校は掲示板に番号が貼り出される形式だ。実際に足を運び、自分の受験番号を探さなければならない。その瞬間が、怖くてたまらなかった。
午後三時。大学の門前は、同じように合否を確認しに来た受験生やその家族でごった返していた。吐く息は冷たく、肩をすくめると制服のボタンがきしむ。人の流れに合わせて歩きながら、心臓の音がだんだん大きくなるのを感じた。
(……番号、ちゃんと見えるかな。落ちてたら、どうしよう)
足が止まりそうになるたびに、夏の日々が頭をよぎった。汗まみれでノートにかじりついた時間。加賀美先生に叱咤され、奈緒や佐伯に支えられた思い出。その全部を裏切るわけにはいかない。
勇気を振り絞って掲示板の前へ進む。人混みの中、紙に並んだ数字の列を食い入るように追った。指先が震えて、自分の番号をなぞる。
――あった。
確かに、そこに刻まれていた。
「……あった。あたし、受かった……!」
声に出した瞬間、視界が揺れた。涙がにじみ、掲示板の数字が滲んでいく。必死で袖で拭っても止まらなかった。肩に誰かの手が触れ、振り返ると同じ学校の同級生たちが「おめでとう!」と口々に言ってくれる。雲雀はただ頷くだけで精一杯だった。
その日の夕方、学校に戻ると、職員室から名前を呼ばれた。扉を開けると、加賀美先生が立っていた。
「河野、来てくれたな」相変わらずの落ち着いた声。けれどその瞳は、普段よりもずっと柔らかかった。
「合格、おめでとう。」その一言に、胸の奥から熱いものがこみ上げる。雲雀は慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます……先生のおかげです。本当に」
「いや、違う」彼は首を振り、真っ直ぐに言った。
「お前が努力したからだ。私は見ていただけに過ぎない。だが、この一年でお前が変わったことは確かだ。勉強だけじゃない。逃げずに向き合えるようになった」その言葉が、何よりも嬉しかった。涙がまた滲みそうになり、視線を落としたそのとき。加賀美先生が、机の上から一通の封筒を持ち上げた。
――それは、今朝置いてきたはずの手紙だった。
「これ、河野が置いていったんだろう?」雲雀の心臓が一瞬止まった。顔が熱くなり、手が震える。
「み、見ました……?」
「いや、まだ読んではいない。だが、名前が書いてあったからな。お前からだと分かった。」静かに机の上に置かれた封筒。視線を逸らすことができず、呼吸が苦しくなる。
「……後で、ちゃんと読む」その声音は真剣で、けれど優しさが滲んでいた。雲雀はどう返せばいいのか分からず、ただ小さく頷いた。
「とにかく、今日はよくやったな。誇っていい。お前は、自分の力で合格を掴んだんだ」
そう言われた瞬間、胸の奥が一気に解けて涙が溢れ出した。加賀美先生は驚いたように一歩近づき、そっと背中に手を添えた。
「……本当に、よく頑張ったな」その温もりに、必死で押し殺してきた想いが込み上げる。だけど、雲雀はまだ何も言えなかった。ただ涙を流しながら、その言葉を心の奥に刻みつけることしかできなかった。
外では冬の冷たい風が吹き抜けているのに、職員室の中は不思議なほど温かかった。




