第十七話第五章
テスト結果が返ってきた日の昼休み、奈緒がわざと答案用紙をひったくるようにして覗き込み、ニヤリと笑った。
「おいおい、雲雀、平均70点超えとかマジかよ? いつも赤点ギリのヤツが、どうしちまったんだ?」
「う、うるせーよ!」雲雀は慌てて答案を取り返すが、奈緒は机に突っ伏して笑い続ける。
「いやー、やればできる子だったんだなぁ。なぁ? でもよ、加賀美先生の前じゃドヤ顔すんじゃねーぞ。絶対ニヤニヤされっから」
「ニヤニヤってなんだよ……」つい声が小さくなった雲雀に、奈緒は「図星だな」とさらにからかってくる。頬が熱くなるのをごまかすように、視線を答案に落とした。
放課後。職員室前で答案返却について呼ばれ、加賀美に声をかけられた。
「河野、ちょっといいか」心臓が跳ねた。先生の机に呼ばれて差し出された成績一覧。
「やっと質問してきたと思ったら、本当にここまで頑張るとはね。平均七〇点超え、おめでとう。」先生はいつもより柔らかい笑顔を見せた。
胸がドキンと鳴る。
「あ、あたし……いや、俺、マジでやっただけで……」しどろもどろに返すと、先生は首を横に振って言った。
「努力したから結果が出たんだ。胸を張っていい。」
その言葉は雲雀の心に深く突き刺さった。からかわれるよりも、ずっと嬉しかった。
だが数日後。思いもよらない問題が持ち上がる。
英語の授業が終わった後、担当の女性教師が真剣な顔で呼び止めた。
「河野、ちょっと残って」
教室が空になり、ドアが閉まる。教師はテスト用紙を机に置き、じっと雲雀を見た。
「今回の英語の点数……急に伸びすぎよ。七四点? 普段の授業態度や小テストから考えると不自然ね。……正直に言いなさい。カンニングでもしたんじゃないの?」
血の気が引いた。
「なっ……してねぇよ!」必死に否定するが、教師は眉をひそめるだけだった。
その場に偶然居合わせた佐伯が口を挟む。
「先生、それは違います。私、見てました。雲雀、本気で勉強してたんです。図書室でもずっと参考書広げて……」
だが教師の視線は冷たい。
「佐伯、あなたまでそんなことを……。二人とも、普段の素行が素行でしょう? 証拠もないのに信じろと言う方が無理よ」
胸がざわついた。――努力が、疑いで潰されるのか。
心臓が重く沈んでいくのを、雲雀は必死に噛みしめていた。
英語教師の厳しい視線に射抜かれ、雲雀は唇を噛んだ。
「カンニングなんかしてねぇって言ってんだろ!」声が大きくなってしまった。だが教師の表情は揺るがない。
そのとき。職員室の方から、加賀美が入ってきた。
「どうしたんですか?」低く落ち着いた声。教師は少し苛立ったように振り返った。
「河野の英語の点数が急に上がりすぎて、不正を疑っているのよ。普段の態度からしても、信じられる?」
雲雀の喉がカラカラになる。けれど加賀美はすぐに否定した。
「信じられますよ。少なくとも私は、この夏休みの努力を一番近くで見てきました。補習も毎日出ていましたし、数学だけじゃなく英語も基礎からやり直していました」
教師は眉を寄せた。
「でも証拠は?」
加賀美は一瞬黙り、そして雲雀を見た。
「証拠を示せるのは、本人しかいない。河野、今ここで問題を解いてみなさい」
「……え?」唐突すぎて心臓が跳ねた。けど、先生の瞳は真剣だった。――逃げ道を作らない瞳。
机の上に英語教師がテキストを開き、即席で問題を指定した。
「この段落を訳しなさい。」
喉が震えた。だが深呼吸して、文字を追う。
(見たことある単語だ……これならいける)
必死に脳裏から単語帳の記憶を呼び出し、文章を組み立てていく。
「……『彼は自分の夢を諦めず、努力し続けた』」声が震えないように、はっきりと読み上げた。
数秒の沈黙。英語教師の目が見開かれた。
「……正解よ」
加賀美が静かに言った。
「これが証拠です。彼女は努力した。その成果が今の点数に繋がっただけです」
教師は言葉を失ったように雲雀を見た。佐伯が小さくガッツポーズをしている。雲雀はようやく息を吐いた。
雲雀と佐伯は職員室を出た。加賀美は小さく笑みを浮かべ、背中を軽く叩いた。
「よくやったな」
その瞬間、胸が熱くなった。今までの自分なら疑われても仕方なかった。でも――今は違う。自分の力で証明できたのだ。
(あたしはもう逃げない。これからも努力して、何度だって証明してやる)
小さな決意を胸に、雲雀は答案用紙よりも重い自信を抱きしめた。
その日の放課後、英語教師――大谷は、職員室で加賀美に静かに声をかけた。
「……さっきは疑ってしまってすみません。急に成績が伸びたから、どうしても不自然に見えてしまって」
加賀美は首を横に振った。
「気持ちは分かります。ただ、私は彼女の努力をずっと見てきました。どんな人の努力だとしても、偽った努力であんな点数は取れませんよ。」
その言葉に、大谷は深くうなずき、表情を引き締めた。
「……確かにそうですね。私の思い込みでした。加賀美先生、河野さんと佐伯さんに後でしっかり謝罪を伝えます。」
机の上に視線を落とした大谷の声音は真剣で、そこに打算の色はなかった。短いやり取りだったが、雲雀の努力はようやく疑いから解放され、正式に認められることになったのだった。
英語教師からの疑いが晴れて数日。教室の空気は、どこか前と違っていた。
授業中に雲雀がノートを取っていると、後ろの席の男子が小声で「マジで河野、最近すげぇよな」とつぶやいた。からかい半分かと思ったが、そこに以前のような嘲りはなかった。昼休みには、普段話さない女子が「この問題、どう解いたの?」と聞いてきて、驚いて返事に詰まってしまう。
――周りの目が変わっている。
不良仲間として見られていた「あたし」じゃなく、同じ教室で勉強する「一人の生徒」として見られている。心のどこかがむずがゆくて仕方なかったが、悪い気分じゃなかった。
奈緒は相変わらずニヤニヤして肩を小突いてきた。
「お前、モテ期来んじゃね? 頭いい雲雀なんてギャップありすぎだろ。」
「バカ言え。俺はそんなの興味ねーし」照れ隠しで突っぱねると、奈緒は大声で笑った。
放課後、図書室の窓際に座り、机に教科書を広げる。夕焼けが差し込んで文字を赤く染めた。
(テストで結果を出した。でも、まだまだだ。これで満足してたら……何も変わらねぇ)
先生の言葉が耳に蘇る。
――「もしよかったら、それなりの難易度の大学に行ってみないか?」
現実味なんてまったくなかったはずなのに、今では胸の奥で火種のように燻っている。大学に行くってことは、勉強し続けなきゃならない。でも、もう「やらねぇ理由」を探すより、「どうやってやるか」を考えた方が早い。
鉛筆を握り直し、目の前のページをにらんだ。
(受験……あたしがそんなもん目指すなんて、笑うやつもいるだろう。でも、やってやる。絶対に)
赤い空に染まった教室で、ペンを走らせる音だけが響いた。




