第十一話第四章
―――私はいつから音楽に縛られているのだろう。―――
その問いを自分に向けたとき、思い出すのは子供の頃のヴァイオリンだ。あの頃、私は演奏することに迷いなどなかった。母が買い与えてくれた小さな分数楽器を抱えて、ただ夢中で弦を擦っていた。鳴った音が濁っていても、指が回らなくても、何時間でも練習することが楽しかった。
だが、その楽しさは、ある瞬間から恐怖と比較の対象へと変わっていった。
最初に突き当たったのは、高瀬だった。彼は私より三歳年上で、すでに地元の音楽教室では頭角を現していた。音を鳴らしただけで違う。響きの深さ、音程の正確さ、そしてなによりも音楽に宿る生命力が、私のものとはまるで別物だった。私はただ、追いつくことも追い越すこともできず、ただ見上げるしかなかった。
発表会の舞台袖で、自分の前に立つ高瀬の演奏を聴いたとき、私は息が詰まった。彼のヴァイオリンは、ただ正確なだけではなかった。音楽そのものが彼の身体を通って自然に流れ出ている。拍手の渦に包まれながら、私は自分の順番が来るのを恐れて仕方がなかった。
そのあと、藤元が現れた。藤元もまた三歳年上で、年齢の差以上の圧倒的な才能を持っていた。彼は楽譜を初めて見ただけで、曲の隅々まで音のニュアンスを理解して演奏できる。まるで譜面が彼の身体の一部になっているかのようだった。
私は二人の間で挟み込まれるようにして、自分の立ち位置を見失っていった。
いくら練習しても、届かない。必死に基礎を繰り返しても、彼らの音には及ばない。気づけば、私はヴァイオリンを抱えるたびに手が震えるようになっていた。指板の黒光りした感触が、いつしか冷たい鉄のように思えてならなかった。
そんな頃、私は秋田荘司という人物に出会った。
正確に言えば、出会ったというより、初めて目にしたのはホールのステージだった。地元のオーケストラを家族で聴きに行ったとき、舞台中央に立っていたのが秋田だった。
彼の指揮は圧倒的だった。タクトを振り下ろす一瞬で、何十人もの奏者が一斉に息を合わせる。わずかな身振りで、音が膨らみ、収束し、波のように客席を包んだ。
私はその姿に見入った。演奏者として感じていた「比較」の苦しみから逃れるように。あの場所に立てば、自分は一人きりで戦う必要はない。全員を導くことで音楽に関われる。そんな夢想に浸った。
実際に秋田の姿は、私の心に強い痕跡を残した。彼の後ろ姿に、私は理想を重ねていった。高瀬や藤元のように「個の演奏」で人を魅了できなくても、全体を支配する力なら、自分も持てるかもしれない。
だが、そんな憧れすらも当時は弱々しい火に過ぎなかった。結局、私はヴァイオリンをやめてしまった。楽器ケースを押し入れの奥にしまい、代わりにクラリネットを選んだ。吹奏楽なら、全員の中に紛れられる。ひとりで舞台に立つ必要はない。
そうやって私は自分を守ろうとした。
──思い出すと、胸の奥が苦しくなる。私は結局、逃げてきただけなのではないか。
窓の外に目をやると、春の光が居間のカーテンを透かして差し込んでいた。昔のことを思い出しているうちに、自然と呼吸が整っていく。居間の静かな空気に触れると、遠い日の舞台袖の緊張や、高瀬や藤元の鮮烈な音が、少しずつ現実から遠ざかっていくのがわかる。
居間のテーブルの上には、散らかった教科書やノートが置かれていた。あの日、桃子が置いていった付箋が、鮮やかに色を残している。無邪気に笑いながら、しつこく私を音楽室へ誘ってくれる彼女の姿を思い出すと、自然と顔がほころんだ。
彼女の明るさは、過去に押し潰されそうになった私の心を、少しずつ現実へ引き戻してくれる。
高瀬や藤元に勝てなかったことは事実だ。秋田荘司のようになれる保証もない。けれど、もし再び音楽と向き合えるのなら。もし、誰かと共に音を作り上げられるのなら、もう一度あの憧れを追ってみてもいいのではないか。
私はペンを取り、ノートの端に小さく「指揮」と書き込んだ。すぐに線を引いて消してしまったが、その跡は残った。居間に流れる沈黙が、不思議と心地よかった。
過去と現在の狭間で、私はようやく小さな歩みを踏み出せた気がした。クラリネットを手にするのも、指揮の夢を抱くのも、まだ不確かで不安定だ。それでも、心のどこかで一歩を踏み出せることが、確かに嬉しかった。
居間の光の中で、私は手元のノートに視線を落とす。桃子の明るい声と、秋田荘司への憧れ、そして三歳年上の高瀬や藤元への劣等感が交錯しながら、私の中で静かに音楽の火をくすぶらせている。
その火は小さく、まだ暖かさを感じるほどではない。それでも、私の胸に確かに灯った光だった。
居間の窓から差し込む光は、春の柔らかさを保ちながらも少し鋭さを帯びていた。私はペンを置き、深く息を吸い込んだ。ノートに「指揮」と書き込んだ跡は、線で消したものの、確かに私の胸に残っている。
過去のことを思い返すと、胸の奥がじわりと痛む。小さなヴァイオリンを抱え、三歳年上の高瀬や藤元の演奏に打ちのめされていたあの頃。音はいつも彼らの方が澄んでいて、正確で、そして強かった。私はどんなに努力しても、届かない。弓を握る手が震え、舞台袖で呼吸を整えるたびに心が潰れそうになった。あのとき、私は音楽から逃げた。楽器ケースを押し入れにしまい、クラリネットに逃げたのだ。あの決断は、私にとって「生き残るための選択」だった。けれど同時に、自分を折った瞬間でもあった。
そして今。あの時の折れた自分と、目の前にいる自分を比べる。あのときは他人の音に圧倒され、ただ萎縮していた。今は違う。桃子の存在もあったし、秋田荘司の指揮に憧れた記憶がある。あの憧れを具体化するために、私は動画講座を取り出した。パソコンの画面に映る秋田荘司は、指揮棒を握り、オーケストラを自在に操っている。指先の微細な動き、肩の微妙な傾き、腕の振り下ろし方、呼吸のタイミング。画面越しでも、その全てが「音を生む力」に満ちていた。
最初は、ただ真似ることから始めた。椅子に座り、背筋を伸ばし、秋田の腕の角度を見ながら、ゆっくりタクトを動かす。呼吸も同じタイミングで吸い、吐く。音は出ない。だが、それでいい。私は過去の自分とは違う。弓を握って必死に音を探すのではなく、指揮棒を通して音を形作る感覚を、まず身体に覚えさせるのだ。
画面を何度も停止しては動きを確認する。手首の返し、肘の高さ、肩の落とし方。すべてが微細な調整で、音のニュアンスが変わる。私は何度も繰り返した。真似るだけなら簡単だ。だが、真似すること自体が、私にとっては過去の自分への挑戦でもあった。あの頃の私は、何度も失敗し、挫折してきた。指揮は失敗しても音が鳴らないわけではないが、それでも私の身体は過去の感覚に支配され、ぎこちなくなる。
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数時間が過ぎ、息が荒くなる。汗もにじむ。だが、その疲労はかつての挫折とは違う。自分で選んだ行動だからだ。画面の秋田の動きを、ただなぞるのではなく、吹奏楽部の編成に合わせて微調整を始めた。オーケストラと違い、吹奏楽は管楽器の比率が多く、打楽器の響きも変わる。私は頭の中で吹奏楽部の人数を思い浮かべ、左右に広がる各楽器の音をイメージする。木管が少し多めの位置、金管は奥、打楽器は中央の後方。その空間を想像しながら、タクトを振る。
「もっとここを…こう…」
小さな声で独り言をつぶやき、タクトの角度を微妙に変える。画面の秋田荘司は動かない。だが私の中では、オーケストラの音が吹奏楽に置き換わり、指揮棒の先から音が流れ出す。過去の自分だったら、こんな想像すらできなかった。指を押さえることだけで精一杯で、他人の音を想像する余裕はなかった。今の私は、あの時よりも、ずっと自由だ。
時折、過去のヴァイオリンの練習の記憶が蘇る。指が滑り、弓が止まり、観客の視線に凍りついたあの感覚。逃げたくて震えていたあの夜のこと。だが今は、逃げる必要はない。私は椅子に座り、タクトを握り、孤独の中で音楽を組み立てている。誰も評価しない、誰も見ていない。ただ自分の身体と頭の中で、音楽を作っていく。その感覚は、かつての私にはなかった喜びだ。
夕方になり、居間の光は少しずつ橙色を帯びる。画面の秋田は、まだ指揮を続けている。私はその動きを止めることなく、ただ真似、そして吹奏楽部用に調整を重ねる。リズムを遅くしたり早くしたり、腕の高さを少し低くしたり高くしたり。すべて自分で考え、判断し、身体に落とし込む。
ふと立ち止まり、手元のノートに今日の練習で気づいたことをメモする。肩の力の抜き方、肘の角度、息の吸い方。過去の自分だったら、こんな細かい分析をする余裕すらなかった。練習が終わるたび、私は少しずつ自信を取り戻していくのを感じる。過去の折れた自分と現在の自分が、同じ身体の中で対比されているのがわかる。あのときの私は、音の前に恐怖があった。今は恐怖ではなく、興味と探究心がある。
夜になり、私は居間の机の前に座ったまま、しばらくタクトを置くことなく指揮の動きを繰り返していた。部屋の中には誰もいない。外の風が窓を揺らし、街の雑音が遠くで響く。孤独であることが、むしろ心地よい。自分のペースで、誰の目も気にせず、ただ音楽の形を探していけるのだ。
「今日も、少し進めたか…」
小さくつぶやき、肩の力を抜く。タクトを机の上に置くと、手の震えが残っていた。だがそれは、失敗の震えではない。集中し、全力を尽くした証だ。私は過去の自分と比べ、初めて音楽と正面から向き合える気がした。
画面の秋田荘司を最後に見つめ、私は深く息をついた。今日一日で、身体はまだぎこちないが、確かに動きが滑らかになってきた。過去の挫折を思い出すたびに、私の心は折れそうになったが、今は違う。あの頃の私なら恐れた孤独の時間も、今の私は楽しめる。自分一人で、音を生み出し、形にできるのだ。
私は立ち上がり、居間の窓の外を眺めた。春の風が、柔らかくカーテンを揺らす。光と影の中で、私は少し笑った。過去の自分と現在の自分が、この孤独な練習の中で、少しずつ融合していくのを感じる。音楽に取り組む喜び、指揮を通して形作る充実感。それはかつて味わえなかった、新しい感覚だった。
タクトを握ったまま、私は思った。過去の私が折れたのは、才能の差に怯えたからだ。しかし今は、誰と比べる必要もない。吹奏楽部の音を自分の身体で操ること、それだけに集中すればいい。失敗しても、誰も叱らない。孤独で、自由で、そして充実している。
居間の光が夜の深みに変わる頃、私は初めて、心の底からこう思った。――私は、また音楽に向き合える。自分の力で、音を形にできる。過去の折れた自分も、今の私の一部として、この手の中に生きているのだと。




