第十七話第四章
――――――翌日――――――
授業が終わり、生徒たちがわいわいと教室を出ていく。雲雀はいつもなら真っ先に廊下に消えるはずなのに、今日は席を立てずにいた。机に置いたノートを見つめ、拳を握る。
(分かんねぇなら、聞けばいい。……でも、どうやって声かけりゃいいんだよ)
胸が騒ぎ、足が重い。視線の先では加賀美が黒板を消しながら、誰かの質問に丁寧に答えていた。穏やかな横顔が、余計に雲雀を緊張させる。
やがて最後の生徒が教室を出ていき、残ったのは二人だけ。静かな空気に押され、雲雀はとうとう立ち上がった。
「……せ、先生」
声が思ったより小さく、かすれていた。加賀美が振り向く。優しい目がこちらを見て、雲雀の心臓は跳ねる。
「どうした?」
「……あ、あの、授業のとこ……ちょっと分かんなくて」
言葉がぎこちなく途切れる。それでも、逃げずに言えた。雲雀は握りしめたノートを差し出し、勇気を振り絞っていた。
雲雀の差し出したノートを受け取った加賀美は、しばしページを眺めてから目を上げた。
「……なるほど、ここでつまずいたのか」
低く落ち着いた声。黒板を消していたときの顔とは違う、柔らかな眼差しが雲雀に向けられる。
椅子を引き、加賀美は隣に腰掛けた。ノートの一行目に鉛筆を走らせながら、穏やかに解き方を説明していく。
「この公式はな、丸暗記するよりも仕組みを理解した方が早いんだ。たとえば――」
彼の説明は不思議と耳にすっと入ってきた。これまで教科書を読んでも何も頭に残らなかったのに、加賀美が噛み砕いて言うだけで、霧が晴れるように分かっていく。
「……あ、そういうことか」思わず声に出すと、加賀美は嬉しそうに目を細めた。
「そう、その調子だ」そしてふと、雲雀をじっと見つめる。
「やっと質問してきたな。」
不意の言葉に、雲雀の心臓が跳ねた。
「お、俺……別に、大したことじゃ……」
「いや。大したことだよ」
加賀美は軽く笑った。その笑顔は、いつも以上に柔らかく、まるで陽だまりのようだった。
「勉強、頑張る気になってくれて……私は本当に嬉しい。」
真っ直ぐな言葉に、雲雀は視線を逸らすしかなかった。胸の奥が熱くなり、顔が赤くなるのを誤魔化そうとする。
(……あたし、こんなふうに言われたの、初めてかも)
加賀美は再びノートに視線を落とし、説明を続ける。その横顔は真剣で、けれど楽しげで、教えること自体を心から大切にしているのが伝わってきた。
やがて説明が一段落すると、加賀美は鉛筆を置き、ふっと息をついた。
「……雲雀」
「……え?」突然名前を呼ばれ、雲雀は体を強張らせた。
「もしよかったらさ」加賀美は少し迷うように、それでも真剣な声で続けた。
「ただテストの勉強をするだけじゃなくて……それなりの難易度の大学を目指してみないか?」
時間が止まったように感じた。
「……だ、大学?」
「ああ。もちろん急に決めなくてもいい。でも、ひばりならやれると思う。昨日までサボってたからって、これから頑張れない理由にはならないだろ」
その言葉は優しさで包まれていたが、同時に真正面からの期待でもあった。雲雀は机に視線を落とした。
(……大学、なんて。あたしが行けるわけ……)
今までの自分を思い出す。仲間と遊び、喧嘩をして、勉強なんて一度もまともにしてこなかった。進学なんて、別世界の話だと思っていた。
けれど――。
(でも……先生が、本気でそう思ってんだ……あたしのこと、見てくれてんだ)
胸が痛いほど高鳴る。返事をしたかった。でも、口が動かなかった。
「……」沈黙の中で、加賀美は焦らせることなく、ただ穏やかに微笑んでいた。
「すぐに答えを出さなくてもいい。考えてみてくれ。」静かにそう告げると、ノートを閉じて雲雀に返した。
雲雀はノートを受け取りながら、唇を噛みしめた。
「……」声は出なかったが、胸の奥でひとつ決意が芽生えていた。
(大学なんて、分かんねぇ。でも……勉強くらいなら、やってみてもいいかもしれねぇ)
自分のためか、先生のためか、その区別はつかない。ただ、今まで投げ出していた文字の世界にもう一度挑もうと、心から思えた。
黒板の文字をすべて消し終えた頃、私はノートを抱える雲雀に声をかけた。
「雲雀」
「……なんだよ」彼女は気恥ずかしそうに返事をしながらも、視線は机の端に落としたままだ。
私は少し考え、意を決して口を開いた。
「まだ高二の夏休み前だ。もう二週間もすれば休みに入る」雲雀の肩がぴくりと動く。
「……」
「夏休みに、今までわからなかったところの復習を全部やってみないか? もちろんテスト勉強もだ。少しでもいい。自分のペースでいいから、やってみてほしい」
彼女は目を見開いた。予想もしていなかった提案に、驚きと戸惑いが入り混じった顔だ。すぐに言葉を返せず、唇を噛みしめる。
「……考えとく」それだけを小さく吐き出し、ノートを胸に抱えて教室を出ていった。
夕暮れの街を歩きながら、雲雀の心は落ち着かなかった。
(夏休みに復習……全部? 今までロクにやってねぇのに、できるのかよ、あたしに)
不良仲間と遊ぶことしかしてこなかった自分。先生の期待に応えられるなんて思えなかった。
けれど、加賀美の真剣な声と優しい笑顔が頭から離れない。
(……でも、先生が言ったんだ。少しでもいいって。全部は無理でも、ちょっとくらいなら……)
心の奥で、何かが揺さぶられていた。
――――――夜、自室――――――
蛍光灯に照らされた机の上に、昼間受け取ったノートを広げる。今まではただの飾りだった参考書を手に取り、ページをめくった。
「……ちょっとだけ、やってみっか。」
鉛筆を握る手が震える。それでも一行ずつ問題を追い、加賀美に教わった解き方を思い出す。
(あ、できた……?)
小さな答えが出ただけで胸が熱くなる。これまで一度も味わったことのない感覚だった。
「……ちょっと、悪くねぇかもな」机に向かいながら、雲雀は小さく笑った。先生に言われたことを思い出しながら、ページを一枚、また一枚とめくっていった。
――――――――――――――――――
夏休みが始まった。蝉の鳴き声がじりじりと響く校舎に、普段なら生徒の姿はまばらだ。だが、特別に用意された補習教室には一人の生徒が机に座っていた。
河野雲雀。
ノートと参考書を広げ、不器用に鉛筆を握る姿は、かつての「授業中に居眠りばかりしていた不良」とは別人のように見えた。
「よし、今日はここからだな」教室の前で声をかけるのは担任の加賀美洋海。
「先生、わざわざあたしのために補習とか……マジで悪ぃ」雲雀は照れ隠しにそっぽを向く。
「気にするな。私にとっては、生徒が頑張ろうと思ってくれることが一番嬉しいんだ」そう言って笑う加賀美に、雲雀の胸が熱くなる。
(まただ……この笑顔、反則すぎんだろ)
補習は午前中から始まり、数人の別の生徒も参加していた。だが気づけば雲雀は一番集中していた。先生の説明を必死で追い、分からないところは勇気を出して質問する。最初は口ごもっていたのに、今では手を挙げて「ここ、もう一回頼む」と言えるようになっていた。
加賀美はその度に、「いい質問だ」と褒めてから答えた。
「公式を覚えるだけじゃなく、使い方を体に染み込ませろ。解けるようになったら楽しくなるぞ」
「……へぇ、ほんとに分かるもんだな」自分でも驚きながら、雲雀は問題を一つ一つ解いていった。
昼休みになると、教室には雲雀と加賀美しか残らないことも多かった。
「どうだ? ついて来られてるか」
「……まぁ、なんとか。あたしにしちゃ上出来だろ」雲雀が口を尖らせると、加賀美は微笑みながらペットボトルのお茶を差し出す。
「その調子だ。最初は少しずつでいい」
そんな日々が続いた。
蝉の声と夏の強い日差しの中で、雲雀のノートは少しずつ解答で埋まり、文字が増えていく。間違いだらけだったページが、気づけば正解の丸でいっぱいになっていた。
(……すげぇ。授業で先生が言ってることが、ちゃんと分かる)
夏休み前は想像もできなかった感覚だった。
ある日、問題を解き終えた雲雀に、加賀美が静かに言った。
「ここまで追いつけたのは、ひばりが本気で取り組んだからだ」
「……先生が根気よく付き合ってくれたからだろ」ぶっきらぼうに返すが、頬は少し赤い。
「いや。私一人じゃどうにもならない。やるかどうかは、ひばり次第だ」
加賀美はそう断言し、いつもの優しい笑顔を見せる。
胸の奥で、また熱が広がった。
(……あたし、ほんとに変わってきてんのかもな)
夏休みの補習はまだ続く。だが、雲雀の瞳にはもう不安よりも「もっと知りたい」という光が宿り始めていた。
夏休みが終わって、九月の始業式を迎えたころ。教室のざわめきに混じって、あたしは心の中で小さく息をついた。
――休みの間、あたしは本当に勉強ばっかしてた。前までの自分じゃ考えられないくらい。
補習で先生に叩き込まれた基礎は確かに身についてきた。でも数学だけじゃ足りない。他の科目を捨てたら、結局また「できない自分」に戻っちまう。だから物理も英語も、国語だって、片っ端から手をつけた。理系だからって国語を疎かにしたら、入試で痛い目を見るって先生に言われた。正直「マジかよ」って思ったけど、やるしかない。
授業中、黒板をにらむ目は前よりずっと真剣になったと思う。問題を解きながら(前より理解できる)って実感できる瞬間が増えていった。
「河野、ノートなんか取ってんの珍しいな」後ろの席から男子が茶化してくる。前のあたしなら「うっせーな!」って返して笑いにしてたかもしれない。でも今はただ肩をすくめてペンを走らせた。
――あたしは、もう変わってる。
九月の終わり、図書室にこもる日も増えた。周りのやつらは「どうしたんだよ雲雀」と半分からかい気味に言ってきたけど、奈緒だけは分かってたみたいで笑いながら「やるじゃん」と肩を叩いてきた。
英語は単語をひたすら覚えた。例文を声に出すのは気恥ずかしかったけど、部屋でひとりなら大声でやれた。物理は苦手だった計算問題を徹底的に練習した。最初は頭を抱えて机に突っ伏したけど、何度も繰り返すうちに少しずつ答えにたどり着けるようになった。国語は現代文の長文を読むたび眠くなったけど、先生が言ってた「要点を線で結べ」ってやり方を思い出して、ページに赤線を引いていった。
……気づけば夜中まで机に向かうのが当たり前になっていた。今までのあたしなら「ダルい」で全部投げ出してただろうに。
十月の頭、中間テストの範囲が発表された。廊下の掲示板を見て、クラスメイトたちが「うわー、広すぎる!」と叫んでいたけど、あたしはむしろ燃えた。
――今度こそ、やってやる。
テスト当日。
教室の空気は張り詰めて、鉛筆の音が一斉に響く。あたしは深呼吸して、一問目をにらんだ。
数学は――解ける。
何度も繰り返した問題と似た形式だった。式を立てて、計算して、答えが出た瞬間、心臓が跳ねる。
物理は難問に手こずったけど、焦らず基礎問題から確実に埋めていった。
英語は、単語を覚えた分だけ文章が読めた。「あ、これ知ってる」って単語に何度も出会えた。
国語は相変わらず苦戦したけど、それでも「何を問われてるか」を考えて解答欄を埋めた。
四日間のテストが終わる頃には、頭が真っ白で立ちくらみしそうだった。でも、不思議と後悔はなかった。
――やれるだけやった。今までで一番頑張った。
結果が返ってきたのは十月中旬。
朝のホームルームで担任の加賀美が答案を配る。教室中が一斉にざわめく中、あたしの心臓は破裂しそうに鳴っていた。
「河野」
名前を呼ばれ、答案用紙を受け取る。思わず目を伏せて、ゆっくり数字を確認した。
――82点。
数学の点数に、思わず息を呑んだ。今まで30点台の赤点ギリギリが当たり前だったのに。
物理は68点。あとちょっとで70に届かなかったけど、過去最高だ。
英語は74点。単語帳を潰した成果が出た。
国語は65点。平均を超えただけでも奇跡みたいだった。
トータルで平均72点。
「あたし……やった」思わず机の下で拳を握った。
クラスの周りは「やっべー赤点だ」とか「意外とイケた」なんて声が飛び交ってたけど、あたしの耳には遠く響いているだけだった。答案を見下ろす手が震えていた。今までバカにされることに慣れていた。自分だって「どうせ無理」って思い込んでいた。けど今は違う。
加賀美が教卓の前から、ちらりとあたしを見た。目が合った瞬間、先生がほんの少し口元を緩めた。
――その笑顔に、胸が熱くなる。
(見てろよ。あたしはまだまだ変われる。もっと上に行ってみせる)
中間テストの答案を胸に、あたしの心は今までにないほど強く燃えていた。




