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第十七話第一章

 春の陽光が斜めに差し込み、まだ新しい教科書の匂いが残る教室に、ざわめきが広がっていた。窓の外には薄桃色の花びらが散り、校庭の向こうで風に舞っている。始業式を終えたばかりの午後。二年生になったばかりの生徒たちは、まだ浮き立つような気配を纏っていた。


 河野雲雀(こうのひばり)は、その騒めきのただ中で、当然のように机の上に腰を下ろしていた。椅子には座らない。長い足を伸ばし、片肘を窓枠に預けながら、口の端に煙草でも咥えていそうな不遜な笑みを浮かべている。もちろん校内で煙草を吸うわけにはいかない。だが、その姿勢ひとつで十分に「俺は従わない」という意志を放っていた。


 乱れ気味の制服。胸元を開け放ち、ネクタイはポケットに突っ込んだまま。鋭い眼差しは、こちらを見据えた瞬間に相手を一歩退かせる。

 ――だが、その奥に隠された熱は、誰も知らない。


 教室の後方が不意に静まる。新しい担任が入ってきたのだ。


 加賀美洋海(かがみひろうみ)。二十七歳。まだ若いが、黒板の前に立ったときの姿勢は揺るがなかった。背筋は真っ直ぐ、目の奥には淡い光を宿している。言葉を連ねるよりも、まず視線で生徒たちを見渡す。その寡黙さが、かえって強い存在感を生んでいた。


 雲雀は、机の上に腰かけたまま、じっとその姿を見つめた。不良らしい虚勢でも、反抗心でもない。

 ――胸の奥に、思いがけない熱が灯った。


 (……やばい。何だ、あの人。)


 始業式を終え、教室に初めて姿を現したその瞬間から。河野雲雀は、新しい担任――加賀美洋海に、一目で心を奪われていた。頬が熱い。だが誰にも気づかれてはならない。彼はいつも通りの不遜な姿勢を崩さぬまま、視線だけを逸らし、窓の外へと逃がした。けれど耳は、黒板に響くチョークの音を逃さなかった。低く落ち着いた声が名前を呼ぶたび、胸の奥がひどくざわついた。


 ――二年の春。反抗的なヤンキーの河野雲雀は、誰よりも真っ直ぐに人を見つめる教師に出会ってしまったのだ。


 チャイムが鳴り終えても、雲雀は動かなかった。相変わらず机の上に腰かけ、片足を揺らしている。周囲の生徒たちは気まずそうに視線を逸らしたり、くすくすと笑い声を漏らしたりしていた。


 普通なら叱責のひとつでも飛んでくる場面だ。だが、黒板の前に立つ加賀美は眉一つ動かさなかった。チョークを走らせ、淡々と日付と科目を書き入れる。その背中は落ち着き払っていて、教室の空気が次第に静かになっていく。


 「――じゃあ、出席を取る」抑えめな声が響いた。

 

 読み上げられる名前に「はい」という返事が重なっていく。

 やがて。


 「河野雲雀」


 その一言で、教室に再びざわめきが広がった。雲雀は鼻で笑い、返事をする代わりに指をひらひらと上げた。


 「ここにいるだろ」挑発のような声音。

 だが、加賀美は眉を動かさず、ただ淡々と出席簿に印をつける。


 「確認した」それだけ言って次の名前を呼び上げた。


 (……何だ、あの余裕。)


 雲雀の胸に妙なざらつきが残る。教師というものは、睨めば少しは怯む。怒鳴られれば殴り返す気で構える。それがこれまでの「戦い方」だった。

 けれど、この男は違った。反応がない。挑発を挑発として受け止めず、ただ流していく。


 ――面白い。同時に、たまらなく胸が熱くなる。


 「河野」出席が終わると、加賀美は初めて雲雀を正面から見た。黒板の前から、まっすぐに。


 「授業を始める。座れ」淡々とした声。

 だが、視線は決してぶれない。


 雲雀は、一瞬言葉を失った。その眼差しに、妙な誤魔化しも、偽りの威圧もない。ただ、教師として当然のことを告げている――そんな真っ直ぐさだった。


 (……やばい。やっぱ、カッコいいわ。)


 心の奥で呟きながら、雲雀はしぶしぶ椅子へと腰を下ろした。周囲の生徒が小さく笑いを漏らす。それでも雲雀の耳には届かない。彼女の意識はただ一人、黒板の前に立つ加賀美洋海に縫いつけられていた。


 授業が終わり、チャイムが校舎の中に鳴り響いた。ざわめきが一気に広がり、椅子が引かれる音や鞄を閉める音が重なっていく。河野雲雀は、誰よりも早く立ち上がった。机を足で押しのけるようにして鞄を掴むと、そのまま廊下へ出る。彼女の足取りは荒い。わざと靴音を響かせ、誰にも近づかせない壁を作るように。

 ――けれど、その胸の奥では落ち着かないざわめきが続いていた。


 (……なんだよ、あの人。)


 授業中の加賀美洋海の姿が、何度も脳裏に浮かぶ。真っ直ぐな声。ぶれない眼差し。机の上に腰かけた自分を咎めるでもなく、ただ「座れ」とだけ言ったその一言。威圧もなく、妥協もなく。まるで当然のように。


 廊下の窓から差し込む夕陽が、雲雀の頬を赤く染めた。熱を持っているのは光のせいだけではない。胸の奥で、まだ得体の知れない鼓動が暴れていた。


 ――そのとき。

 曲がり角の向こうから、落ち着いた足音が近づいてくる。


 加賀美だった。腕に教科書を抱え、静かに歩いてくる姿は、さっき教壇に立っていたときと同じ落ち着きを纏っている。視線は前を向き、特別に誰かを探しているわけでもない。それでも、雲雀にはすぐに分かった。


 彼女の胸が、勝手に跳ねる。


 (やば……。)


 逃げればいい。背を向けて駆けていけば、いつもの「不良の雲雀」でいられる。けれど、足は動かなかった。廊下に立ち尽くし、呼吸だけが妙に浅くなる。


 加賀美の足音が近づき、そして止まった。すれ違う瞬間、彼はわずかに顔を傾け、淡々とした声で告げる。


 「河野」


 その名を呼ばれた一瞬、雲雀の心臓は大きく跳ね上がった。叱られると思った。挑発に応じた仕返しでもあるのかと身構えた。

 だが――加賀美の声は静かだった。


 「明日からは、ちゃんと椅子に座れ」


 それだけ。命令でもなく、諭すでもなく。ただ当然のことを当然として告げる。


 雲雀は思わず唇を噛んだ。反発の言葉を吐こうとしたのに、声が出てこない。胸の奥を揺らすのは怒りじゃない。熱く、どうしようもなく惹かれる感情だった。


 「……チッ」


 舌打ちをして、顔を逸らす。それが精一杯の抵抗だった。加賀美は振り返らない。足音を再び響かせ、夕陽の差す廊下を静かに歩いていく。


 残された雲雀は、拳を握りしめてその背中を睨みつけた。

 ――けれど視線の奥には、憧れにも似た光が宿っていた。


 (……あたし、どうしちまったんだろ。)


 夕陽に照らされる廊下の片隅で、河野雲雀は胸のざわめきを押し隠すように深く息を吐いた。


――――――翌日――――――


 教室の空気は、どこまでも平凡だ。窓の外からは体育の掛け声が遠くに聞こえ、ノートをめくる音が静かに重なっていく。河野雲雀は、机に頬杖をつきながら視線を黒板へ向けた。――正確には、黒板の前に立つ加賀美洋海へ。


 (……また見てる。)


 雲雀は気づかないふりをして、何度も目を逸らそうとするのに。気がつけば、あの背中を追ってる。チョークを握る手の形。無駄のない動作。淡々とした声。全部、妙に目を奪われる。


 「――ここ、公式の使い方を間違えるな」


 黒板に数式を書きながら、加賀美が淡々と告げる。その横顔を見て、胸がちくりとした。なんであたしがこんな気持ちにならなきゃなんないんだ。


 (ちょっとカッコいいと思っただけだ。……それ以上じゃねぇ。)


 そう思い込もうとする。だが心臓は嘘をつけない。授業が終わるまでの四十五分間、視線は勝手に動いてしまう。


 頬が熱くなるのをごまかすように、雲雀はわざと足を組み替えて、椅子をきしませた。前の席の生徒がびくりと振り返る。

 

 「……なんだよ」低く吐き捨てると、相手は慌てて前を向いた。


 加賀美は振り返らない。あくまで授業を崩さず、淡々と説明を続ける。その無関心さが、逆に雲雀の胸をざわつかせた。


 「河野、答えてみろ」突然名前を呼ばれ、雲雀は肩を跳ねさせた。

 

 「……え? あ、ああ、えっと……」慌てて立ち上がる。脳裏に浮かんでいるのは答えじゃなく、彼の落ち着いた声ばかりだった。

 結局、同じ班の子に助け舟を出されて、雲雀は舌打ち混じりに座り直す。


 (バカみてぇ……何やってんだ、あたし。)


 自分で自分に腹が立つ。けど、それ以上に、呼ばれただけで心臓が跳ねた事実の方がずっと悔しかった。

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