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第十六話第二章

 レストランを出ると、夜の風が二人を包んだ。昼間の賑わいを失った通りは、街灯の光に照らされて静かに広がっている。玉藻は歩きながら、小さく肩をすくめた。


 「……やはり、人の世はあたたかくて、どこか切なくて……奇妙な場所です」

 

 「切ない?」通久が問い返すと、玉藻は頷いた。


 「はい。人は命短く、時の流れに逆らえません。笑い合っていた二人も、やがては別れを迎える。それを知りながら、皆こうして灯りの下で笑顔を作る……(わたくし)には、とても眩しく映ります」


 通久は黙って聞き、やがて答えた。

 「でも、それが人の生き方なんだ。儚いからこそ、一瞬を大事にできる。……君は妖だから、そういうのは違って見えるのかもしれないけど。」


 玉藻は横顔を見上げる。

 「(わたくし)は……境を漂うもの。人でもなく、純然たる妖でもなく。ただ、通久様と過ごす時が続くなら、それが(わたくし)の居場所になる気がするのです」


 その言葉に、通久は胸が温かくなるのを感じた。五年前に救った小さな命が、いまこうして人と妖のはざまを歩む存在となり、自分に寄り添っている。


 「……境に立つのは大変だろうな。人からすれば異質だし、妖から見れば中途半端だ。でも――」


 通久は足を止め、玉藻の目を見た。

 「私は、君がどちらであってもかまわない。一緒に歩いてくれるなら、それでいい」


 玉藻の瞳が潤み、やわらかい笑みが浮かぶ。

 「通久様……それは、(わたくし)にとって何よりの救いです」


 二人は再び歩き出す。街灯に照らされた道を、人と妖の狭間を生きる者と人間が、肩を並べて進んでいく。


 夜の町を歩く二人は、しばし幸福な沈黙に包まれていた。玉藻は街灯に照らされながら、柔らかな笑みを浮かべている。だが、その姿は人々の目にあまりに整いすぎて映ったのだろう。


 「ねえ、見て……あの子、芸能人?」

 

 「いや、でもあんな黒髪……日本人っぽくないよな」


 通りをすれ違う人々が、ちらちらと玉藻に視線を向ける。好奇の目は彼女の存在を曖昧にし、通久に妙な緊張を与えた。


 「通久様……」

 

 「(わたくし)に向けられる眼差しは、ただの興味ではありません。人の世に混じる異質なものを、本能で嗅ぎ取っているのです。」玉藻は小声で囁く。


 「大丈夫。誰も君が妖だなんて気づきやしない」通久は思わず彼女の手を握った。そう言い聞かせながらも、背中に冷たい汗が伝うのを感じた。


 そのときだった。


 ビュウッ――と、唐突に冷たい風が吹き抜けた。街灯の光が一瞬揺らぎ、まるで夜の底が割れたかのように、空気が重く沈む。通久は思わず息を呑んだ。


 「……異変、です」玉藻の表情が一変した。先ほどまでの穏やかな微笑みは消え、鋭い眼差しが夜の闇を見据える。


 路地裏から、黒い影がにじみ出るように広がってきた。人々は気づかずに通り過ぎていく。だが、通久と玉藻には、その影が生き物のように蠢いているのがはっきりと見えた。


 「……何だ、あれは……」

 

 「境の狭間に棲むもの。(わたくし)のように人の世へ出る力は持たず、ただ怨嗟と飢えを抱えて彷徨う影――《境喰らい》」


 影はじわじわと広がり、二人の足元を狙うかのように這い寄ってくる。周囲の人々はまるでそれを見ないふりをしているようで、誰一人異変に気づかない。


 「私たちを狙ってるのか……?」

 

 「いいえ。境喰らいは、人と妖の間にある曖昧な存在を求めます。つまり――」


 玉藻の言葉が途切れる。彼女の身を、影がまるで吸い寄せられるように絡め取ろうとしたのだ。


 「玉藻!」通久は反射的に彼女の腕を引き寄せた。玉藻の身体は驚くほど軽く、だが確かな温もりが伝わってくる。


 「……(わたくし)が標的です。ですが、通久様の傍にいる限り、完全に飲み込まれることはない」玉藻はそう言い切り、通久を見上げた。その瞳には恐怖ではなく、確固たる意志が宿っている。


 「では、どうすれば……」

 

 「退ける方法は一つ。人の心の強さを示すことです。境喰らいは迷いや弱さに付け込む。通久様が(わたくし)を受け入れると決めてくださるなら――この影は退くはず」通久は息を呑んだ。外から向けられる視線も怖い。異質な存在と共に生きるなど、理性では到底説明がつかない。だが――。


 「……私はもう決めてる」通久は玉藻の手を強く握った。

 

 「君が人であろうと妖であろうと、私の隣にいてくれるなら、それでいい。……だから、奪わせはしない!」


 その瞬間、影はビクリと震え、やがて霧のように揺らいで消えていった。風が止み、街灯の光が元に戻る。人々は何事もなかったように歩みを続けていた。


 「……やりましたね、通久様」玉藻は安堵の笑みを浮かべ、そっと彼の肩に身を寄せた。


 「これが、人と妖の境を生きるということ。(わたくし)を選ぶ道は、きっと試練に満ちます。それでも――」


 「それでも、君と一緒に歩く。」通久の言葉は、街のざわめきにかき消されることなく、玉藻の胸に深く響いた。


 異変が過ぎ去ったあと、二人は足早に町を抜け、通久の住むアパートへと戻った。夜風はまだ肌寒く、春の匂いと冬の残り香が混ざり合っている。


 「今日は……本当にいろいろあったな。」鍵を回して扉を開けると、ほっとするような生活の匂いが迎えてくれる。玉藻は興味深そうに部屋の中を見渡し、慎ましく足を踏み入れた。


 「ここが……通久様のお住まいなのですね。とても落ち着いた場所です。」

 

 「落ち着いてるっていうより、ただの狭い一人暮らしの部屋だよ。」苦笑しながら靴を脱ぎ、二人は灯りをつける。


 深夜に近づいていたこともあり、言葉少なにシャワーを浴び、簡単に布団を敷いて横になることになった。部屋に二人分の気配があるのは、通久にとって初めての体験だった。


 横になって天井を見つめながら、通久は考えを巡らせる。


 ――今日、私は確かに選んだんだ。人でも妖でも関係なく、玉藻と一緒に歩むって。

 その決意に嘘はない。けれど、現実の生活は待ってくれない。


 春からの就職先はもう決まっている。初出勤の日までに調べ、準備しておかないといけないことは山ほどある。通勤経路、会社の規模、業務の基礎知識。上司や同僚とどう付き合うかも考えなければならない。


 「……人と妖の境界をどう歩くか、なんて大層なことを言ったけど。結局、私はただの新入社員なんだよな。」呟きながら、心に重さを覚える。だが、その隣に玉藻がいるという事実が、不思議と孤独を和らげていた。


 一方の玉藻も、布団の中でそっと目を閉じながら考えていた。

 ――通久様は(わたくし)に命を与えてくださった。ならば、今度は(わたくし)がその日々を支えなければ。

 異変と視線、彼が抱える不安。人の世に根を下ろそうとする彼に、(わたくし)ができることは何だろう。恩返しは形を持たねばならない。感謝の言葉だけでは足りない。彼の日常を支える行いこそが、報いる道になるのではないか。


 「……どうすれば、一番喜んでいただけるでしょう」小さな声は闇に溶け、答えを持たないまま眠りに沈んでいく。


 狭い部屋に、二人の寝息が重なって響いた。人と妖が同じ布団の下で夜を越す。それはまだぎこちなくも、確かに始まった共生のかたちだった。

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