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第十六話第一章

 ある冬の夜、雪は細かな粉となって町外れの道を白く覆っていた。街灯の明かりは頼りなく揺れ、風が吹くたびに舞い上がる粉雪が視界を曖昧にする。浜西通久(はまにしみちひさ)は制服の襟を立て、両手をポケットに突っ込みながら歩いていた。十七歳の少年には、冬の夜道は少し心細い。だが家路を急ぐ足は、冷え切った空気に押されるように自然と速くなっていた。


 ふと、道端に黒い影が沈んでいるのに気づいた。雪に埋もれるように、かすかな体温だけを残して横たわっている。通久は立ち止まり、しゃがみこんで手を伸ばす。


 それは一匹の黒猫だった。毛並みは乱れ、肋骨が浮き出るほど痩せ細り、小さな体は弱々しく震えている。目はわずかに開いていたが、その光は今にも消え入りそうだった。


 「……生きてるのか」


 通久は思わず声を洩らし、慌てて自分の上着を脱いで猫を包み込んだ。冷たさの奥に、かすかに残る鼓動を感じて胸が詰まる。助けなければ、この命は雪とともに凍りついてしまう。


 腕に抱え、彼は一気に駆け出した。靴底が雪を蹴り、白い粉が弾ける。吐く息は荒く白く、頬を刺す風は容赦なく冷たい。だが胸の中の温もりだけは、何としても守らねばならなかった。


 家に着くと通久はストーブを点け、タオルで猫の体を拭き、毛布に包み直した。小さな器に温めたミルクを注ぐと、黒猫はかすかに顔を上げ、舌を震わせながら少しずつ口にした。弱々しい音だが、確かに生きる力が戻りつつある。


 「……よかった。大丈夫だ」


 胸に安堵が広がった。その日を境に、猫は通久の家で暮らすようになった。名前を与えられ、日ごとに少しずつ元気を取り戻していく。彼の帰宅を待ち、夜は枕元で丸まり眠る。通久にとって、それは静かで確かな幸福だった。


 季節は移り、やがて春。ある朝、黒猫はふいに姿を消した。いくら呼んでも、その小さな影は戻らなかった。ただ、最後に見せた瞳には、深い感謝の光が宿っていた。


 ――それから五年の歳月が流れた。


 大学を卒業する前の日。通久がかつての町外れを歩いていたとき、一人の少女が現れた。漆黒の髪を持ち、透きとおるような肌をした美しい少女。人ならぬ気配を纏いながらも、その微笑みは優しかった。


 「……あの日、(わたくし)を救ってくださったこと、決して忘れておりません」


 少女――玉藻は静かに言葉を紡ぐ。


 「この命、通久様に拾われたことで、今ここにありますのよ」


 その瞳は、あの冬の夜に抱きしめた黒猫のものと、同じ光を宿していた。


 春の風が街路樹の若葉を揺らし、夕暮れに溶け込んでいく。浜西通久は、突然現れた少女を前に言葉を失っていた。漆黒の髪が風に流れ、その瞳はどこか懐かしい光を宿している。五年前に拾い、そして失ったはずの黒猫。その姿が重なってしまうのは、ただの錯覚ではないだろう。


 「……通久様」

 

 少女――玉藻は微笑みを浮かべながら、そっと視線を上げる。

 「少々……お腹がすいてしまいました」


 意外な言葉に、通久は思わず瞬きをした。人ならざる気配を纏う彼女から「空腹」を告げられるとは思わなかったのだ。けれど、彼女の表情はあまりに自然で、そこには飾り気のない素直さがあった。


 「……そうか。じゃあ、何か食べに行こう」


 彼は迷うことなく頷いた。今すぐ答えを求めるよりも、まずは彼女が望むことを満たしてやりたいと思ったのだ。


 近くの商店街を抜け、二人は温かな光に包まれたレストランへと入った。木製の扉を開けると、バターとハーブの香りが迎えてくれる。落ち着いた照明の下、カップルや家族連れがそれぞれの食事を楽しんでいた。


 玉藻は初めて訪れる場所に興味深そうに辺りを見回し、通久の後ろを静かに歩く。席に案内されると、彼女は椅子に腰を下ろし、膝の上で両手を重ねて小さく息をついた。


 「……あたたかい場所ですね。外の冷たい風とはまるで別世界のよう」

 

 「うん。冬に君を見つけた夜も、こんなふうに外は凍えていたよ」


 通久がメニューを手にしながら言うと、玉藻はふっと目を細めた。


 「覚えております。雪の中、(わたくし)は命の火を失いかけておりました。あの時、通久様が抱き上げてくださらなければ……もう、この世には存在していなかったでしょう」


 通久は一瞬、言葉を失った。やはり彼女は――。


 「……君は、本当にあの黒猫なのか?」


 問いかけると、玉藻は静かに頷いた。

 「はい。(わたくし)は人の世と妖の世とのはざまに生きる存在。生まれながらに人の姿を持つこともあれば、獣の姿を宿すこともございます。けれど、あの日の(わたくし)は力を失い、ただの小さき黒猫に過ぎませんでした。」


 彼女の声音は柔らかく、しかし確かだった。


 「……あれから五年。(わたくし)は再び力を取り戻しました。そして何より――通久様に恩を返すため、この姿で参ったのです」


 店員が近づき、注文を尋ねる。通久はパスタとサラダを選び、玉藻には肉料理をすすめた。彼女は少し迷ったあと、素直に頷いた。


 料理が運ばれてくるまでの間、二人の間にはしばし沈黙が落ちた。通久はグラスの水を口に運びながら、胸の奥に去来する感情を持て余していた。


 ――五年前、自分が救った黒猫が、いま目の前に人の姿で座っている。常識ではあり得ないことだ。だが、その瞳の奥に宿る光は、あの夜に見たものと同じだと確信できる。


 「……君は、どうして私のところに戻ってきたんだ?」


 静かに尋ねると、玉藻は迷いなく答えた。


 「通久様。あの夜、(わたくし)は凍える闇の中で、もう世界に背を向けようとしておりました。ですが、通久様は手を差し伸べてくださった。あの温もりを、決して忘れることはできません。ですから、(わたくし)は感謝を伝えるために戻ってきたのです」


 その瞳は真剣で、嘘の影ひとつなかった。


 やがて料理が運ばれ、香ばしい匂いがテーブルを満たす。玉藻はナイフとフォークをぎこちなく手に取り、肉を切り分ける。ひと口、口に運ぶと目を輝かせた。


 「……おいしい……! 人の世の食は、こんなにも豊かだったのですね」


 その純粋な驚きに、通久は思わず笑みをこぼした。黒猫だった頃と同じように、小さな仕草ひとつで心を和ませる存在――それが玉藻なのだと、改めて思い知らされる。


 「これから、どうするつもりなんだ?」

 通久の問いに、玉藻は一瞬視線を伏せ、それから真っ直ぐに彼を見つめた。


 「……(わたくし)は、通久様のお傍にいたいと願っております。あの日いただいた命を、ただ返すだけでは足りません。これからの日々を、共に歩むことでお返ししたいのです」


 胸に熱が広がる。五年前、雪の夜に抱いた小さな命は、いまこうして人の姿をとり、自分の隣で笑っている。


 通久はゆっくりと息をつき、テーブルの上で手を重ねた。

 「……なら、まずはこの町を一緒に歩いてみよう。君と私とで」


 玉藻は微笑んだ。漆黒の髪が揺れ、その瞳には確かな喜びの光が宿っていた。

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