表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/35

第十一話第三章

 休み時間になるたび、桃子が廊下から駆け込んでくる。まるで鐘の音と同時に弾かれた弦のように、勢いよく教室のドアが開く。


 「應正! 次の休み時間、音楽室寄ろうよ!」


 彼女の声はいつも一番に響く。私の名前を呼ぶその調子は、何度も聞いているうちに心のどこかがざわめき、そして少しずつ慣らされていく。正直、最初は迷惑に感じていた。せっかくの休み時間を静かに過ごしたいのに、彼女の勢いは余計な雑音に思えた。


 だが日を追うごとに、その雑音が不思議と耳に馴染んでいった。


 教室の窓から差し込む朝の光と同じように、桃子はいつも明るい。休み時間のたびに笑顔で駆け寄ってきては、机に突っ伏す私を起こす。


 「應正、今日の英語の授業、発音すごかったよ」

 「應正ってさ、頭いいでしょ? ノート貸して!」

 「ねえ、音楽室でちょっとだけ一緒に見てってば!」


 最初は断っていた。

 「悪い」

 「面倒だ」

 「興味ない」


 だが桃子は意に介さず、何度でも誘いを繰り返す。彼女のしつこさは、どこか必死さを含んでいて、冷たく突き放せなくなっていた。


 私は人前で楽器を吹くのが嫌いになっていた。クラリネットはかつての私にとって誇りだったが、ある時を境に重荷へと変わった。息を入れるたびに、音は私を裏切るように不安定で、周囲の視線が突き刺さる。それ以来、舞台も練習室も避けるようになった。


 そんな私に、桃子は臆せず笑顔で迫ってくる。音楽室に足を運ぶたび、楽譜や楽器の匂いが鼻を刺し、胸の奥で封じていた記憶が疼いた。


 ある昼休み、桃子が唐突に言った。

 「應正ってさ、指揮やってみたいと思わない?」


 私は思わず顔を上げた。彼女は冗談を言っているようには見えなかった。大きな瞳が真っすぐに私を見つめている。


 「なんで、そんなことを?」


 「だって、應正って人の動きを見てるとわかるけど、全体を気にしてるんだよね。クラリネットのパートだけじゃなくて、全員の音の流れとか。そういうの、指揮者っぽい。」


 心の奥を見透かされたようで、言葉を失った。実際、私は演奏している時、常に全体の響きを気にしていた。隣の木管だけでなく、後方の金管や打楽器、さらにはホール全体の反響まで。自分の音がどこに位置しているかを確認せずにはいられなかった。


 それは演奏者として集中力を欠いていたのかもしれない。だが、もし指揮者としてなら──。


 その発想が芽生えた瞬間、胸の奥で小さな熱が灯った。クラリネットを手放した代わりに、自分には別の役割があるのではないか。


 だが現実は甘くなかった。


 「……でも、今は西宮先輩がいるだろう」


 私は吐き捨てるように言った。西宮先輩──吹奏楽部の部長にして、揺るぎない指揮者。三年生で、誰もが認める才能と統率力を持つ。私にとっては、届かない頂のような存在だった。


 桃子は一瞬だけ口をつぐんだが、すぐにまた笑った。

 「うん、そうだね。でも應正が指揮をやってるところも見たいな。」無邪気にそう言い切る彼女に、私はまた言葉をなくした。


 放課後、帰りの廊下でも桃子は私を追ってきた。窓の外は夕焼けで染まり、教室棟の影が長く伸びている。

 「ねえ、應正。逃げないでよ」

 

 「逃げてない」


 「ほんとに?」


 「……少なくとも、今日までは」自分でも驚くほど素直な言葉が口をついた。桃子は目を丸くした後、破顔して笑った。


 その笑顔を見て、心の奥に張りつめていた氷が少しずつ解けていくのを感じた。


 クラリネットを再び手に取るのは、まだ怖い。だが、音楽そのものからは逃げられない。桃子のしつこい明るさが、私にその事実を突きつけ続けていた。


 もし、指揮という役割なら。もし、自分の視線で全体を動かせるなら。もう一度、音楽と向き合えるのかもしれない。


 西宮先輩という大きな存在に阻まれている現状がある。けれど、桃子の言葉は確かに私の胸を揺らした。


──私は、クラリネット奏者ではなく、指揮者になりたいのかもしれない。


 その思いが初めて、はっきりと輪郭を帯びた。


  

―――私はいつから音楽に縛られているのだろう。―――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ