第十一話第三章
休み時間になるたび、桃子が廊下から駆け込んでくる。まるで鐘の音と同時に弾かれた弦のように、勢いよく教室のドアが開く。
「應正! 次の休み時間、音楽室寄ろうよ!」
彼女の声はいつも一番に響く。私の名前を呼ぶその調子は、何度も聞いているうちに心のどこかがざわめき、そして少しずつ慣らされていく。正直、最初は迷惑に感じていた。せっかくの休み時間を静かに過ごしたいのに、彼女の勢いは余計な雑音に思えた。
だが日を追うごとに、その雑音が不思議と耳に馴染んでいった。
教室の窓から差し込む朝の光と同じように、桃子はいつも明るい。休み時間のたびに笑顔で駆け寄ってきては、机に突っ伏す私を起こす。
「應正、今日の英語の授業、発音すごかったよ」
「應正ってさ、頭いいでしょ? ノート貸して!」
「ねえ、音楽室でちょっとだけ一緒に見てってば!」
最初は断っていた。
「悪い」
「面倒だ」
「興味ない」
だが桃子は意に介さず、何度でも誘いを繰り返す。彼女のしつこさは、どこか必死さを含んでいて、冷たく突き放せなくなっていた。
私は人前で楽器を吹くのが嫌いになっていた。クラリネットはかつての私にとって誇りだったが、ある時を境に重荷へと変わった。息を入れるたびに、音は私を裏切るように不安定で、周囲の視線が突き刺さる。それ以来、舞台も練習室も避けるようになった。
そんな私に、桃子は臆せず笑顔で迫ってくる。音楽室に足を運ぶたび、楽譜や楽器の匂いが鼻を刺し、胸の奥で封じていた記憶が疼いた。
ある昼休み、桃子が唐突に言った。
「應正ってさ、指揮やってみたいと思わない?」
私は思わず顔を上げた。彼女は冗談を言っているようには見えなかった。大きな瞳が真っすぐに私を見つめている。
「なんで、そんなことを?」
「だって、應正って人の動きを見てるとわかるけど、全体を気にしてるんだよね。クラリネットのパートだけじゃなくて、全員の音の流れとか。そういうの、指揮者っぽい。」
心の奥を見透かされたようで、言葉を失った。実際、私は演奏している時、常に全体の響きを気にしていた。隣の木管だけでなく、後方の金管や打楽器、さらにはホール全体の反響まで。自分の音がどこに位置しているかを確認せずにはいられなかった。
それは演奏者として集中力を欠いていたのかもしれない。だが、もし指揮者としてなら──。
その発想が芽生えた瞬間、胸の奥で小さな熱が灯った。クラリネットを手放した代わりに、自分には別の役割があるのではないか。
だが現実は甘くなかった。
「……でも、今は西宮先輩がいるだろう」
私は吐き捨てるように言った。西宮先輩──吹奏楽部の部長にして、揺るぎない指揮者。三年生で、誰もが認める才能と統率力を持つ。私にとっては、届かない頂のような存在だった。
桃子は一瞬だけ口をつぐんだが、すぐにまた笑った。
「うん、そうだね。でも應正が指揮をやってるところも見たいな。」無邪気にそう言い切る彼女に、私はまた言葉をなくした。
放課後、帰りの廊下でも桃子は私を追ってきた。窓の外は夕焼けで染まり、教室棟の影が長く伸びている。
「ねえ、應正。逃げないでよ」
「逃げてない」
「ほんとに?」
「……少なくとも、今日までは」自分でも驚くほど素直な言葉が口をついた。桃子は目を丸くした後、破顔して笑った。
その笑顔を見て、心の奥に張りつめていた氷が少しずつ解けていくのを感じた。
クラリネットを再び手に取るのは、まだ怖い。だが、音楽そのものからは逃げられない。桃子のしつこい明るさが、私にその事実を突きつけ続けていた。
もし、指揮という役割なら。もし、自分の視線で全体を動かせるなら。もう一度、音楽と向き合えるのかもしれない。
西宮先輩という大きな存在に阻まれている現状がある。けれど、桃子の言葉は確かに私の胸を揺らした。
──私は、クラリネット奏者ではなく、指揮者になりたいのかもしれない。
その思いが初めて、はっきりと輪郭を帯びた。
―――私はいつから音楽に縛られているのだろう。―――




