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第十五話第四章

 しかし、事態は突然訪れた。ある週末、スポーツ紙の一面に「人気グラドル・萌、深夜の密会」と大きく載ったのだ。相手は同じ番組で共演した芸人。真夜中の路地を二人並んで歩く写真。角度や距離感からすればただの帰り道にも見える。だが見出しは「熱愛」「お泊まり」と煽り立てていた。


 私は記事を手に取った瞬間、深く息を吐いた。決定的な証拠ではない。しかし世間にとっては「燃料」として十分すぎた。ネットはすぐに騒ぎ立ち、ファンの間でも賛否が飛び交った。「アイドルが恋愛してもいいじゃないか」という声もあるが、番組やスポンサーにとっては「清潔さ」が何より重視される。問題は真偽ではなく、イメージだった。


 局の廊下でプロデューサーに呼び止められた。

 「大森くん、記事について説明はある?」


 「事実無根です。二人で打ち上げ後に駅まで歩いただけだと本人も話しています」


 「……でも、世間はそうは見ない。次回の収録は一旦様子を見たい」プロデューサーの言葉は冷静で、感情を交えていなかった。だがその分だけ重かった。


 楽屋に戻ると、萌はソファに座り込んでいた。目の前のスマホには、SNSで飛び交う心ない言葉。

 「私……どうすればいいの?」声はかすれていた。いつも舞台の上で見せる明るさはどこにもない。


 私はしばらく黙った。慰めの言葉を口にすることは簡単だった。しかし、彼女に必要なのは感情ではなく道筋だ。

 「……嵐は必ず過ぎる。だが、何もしなければ消耗するだけだ。今回の件は逃げるより、正面から受け止める方がいい」


 「正面から……?」


 「番組で説明する機会を設けてもらう。冗談でもいい。『芸人さんに送ってもらっただけで、ラーメン一杯すら食べてません!』くらい言えば、空気は変わる」


 萌は俯いたまま、しばらく動かなかった。だがやがて顔を上げ、弱々しく笑った。

 「叢さんって、ほんとずるいよね。いつも冷静で、私が泣いてても動じない」


 「……仕事だからな」本心を隠すように答えた。だが内心では、彼女の不安をすべて引き受けたい衝動に駆られていた。


 その夜、私はスポンサーや局との調整に奔走した。記事の真偽を説明し、今後の対応を約束する。必要以上に弁解はしない。ただ淡々と、嵐をやり過ごす道筋を敷いていく。

 頭の中では「計算」ではなく「考える」時間が続いた。世間の流れ、視聴者の感情、そして萌の心。どれも数字では測れない。だからこそ、私が冷静でいなければならなかった。


 ――だが、その一方で確信していた。

 この逆風を乗り越えた先に、彼女はさらに強くなる。問題は、私がどこまで彼女を守り抜けるかだ。


 スキャンダル対応で奔走していた矢先、私はついに体調を崩した。最初は喉の痛みだけだと思っていたが、翌朝には高熱で立ち上がることすら難しくなっていた。医者からは即座に静養を命じられる。仕事柄、無理をしてでも現場に立つのが常だったが、今回はどうにもならない。


 制作側には事情を説明し、代わりに別のマネージャーが番組に同行することになった。私が慎重に積み重ねてきた流れを、他人に託さざるを得ない。ベッドの上でスマートフォンを握りしめながら、私はただ、萌がどう立ち回るかを案じていた。


 熱にうなされながら、私は天井を見つめていた。医者に言われた通り、数日は絶対安静。頭では理解しているが、心は落ち着かなかった。体が鉛のように重く、咳をするたびに胸が焼ける。けれども、気がかりなのは自分の体調よりも現場だった。

 萌の初冠番組は、今や局の期待を背負ったコンテンツだ。その空気を崩さぬよう、彼女の動きも、私の段取りも、すべて計算し考え抜いてきた。だが今回、その現場に私は立ち会えない。


 代役に指名されたのは、同じ事務所の若手マネージャー、佐川だった。几帳面で仕事は速い。だが「効率」を優先しすぎる傾向があり、芸能の現場に不可欠な「間」や「余白」を掴み切れていない部分がある。

 私は電話越しに指示を伝えた。

 「無理に仕切らず、彼女が安心して動けるようにしてやってくれ」

 

 「分かってますよ、大森さん。スケジュール管理は自信ありますから。」頼もしげな返事の裏で、微かな不安が拭えなかった。


 翌日、私は布団の中からスマホで現場の報告を追った。スタッフとのやり取り、進行表の確認、衣装の準備。連絡は滞りなく届く。だがその文面には「空気」がない。現場の匂いや熱が感じられなかった。


 収録当日。楽屋に入った萌は、明らかに落ち着かない様子を見せていた。

 「大森さん、本当に来れないの?」不安を隠すように笑っていたが、目は泳いでいた。

 

 「大丈夫。私がサポートしますから」佐川の言葉はきっぱりしていた。だが、その「大丈夫」の響きには温度がなかった。


 進行表は綿密に整理されていた。メイク、リハーサル、スタンバイ、本番。分刻みのスケジュールに沿って進む。だが、萌の心の揺れは誰も拾い上げない。

 本番直前、彼女はモニターを見つめながら、そっと深呼吸をした。

(大森さんなら、こういうとき何て言ってくれるだろう)

 そんな思いが胸に去来していた。


 番組は生放送だった。冒頭からアドリブを求められる空気が漂い、想定外のゲストの冗談が飛ぶ。萌は笑顔を絶やさなかったが、内心は緊張の糸が張り詰めていた。

 ゲストのひとりが唐突に「ところで、例の写真、どうだったの?」と切り込んできた。会場がざわめく。事前打ち合わせにはなかった質問。佐川はカンペを出すでもなく、スタッフに目を向けるだけだった。


 その瞬間、萌は自分で答えを選んだ。

 「えへへ、あれですか? 実はただの帰り道なんですよ。私、ラーメン食べ損ねちゃって……お腹ペコペコで家に帰っただけ!」

 肩をすくめておどけて見せる。観客が笑い、空気が和らいだ。

 「だから次は番組で、ちゃんとラーメン食べに行きたいな~なんて」続けて軽くボケると、芸人が「じゃあ今度俺が奢るよ!」とぼけて「お前に奢ってもらいたくないだろ」と相方がツッコミを入れる。会場は大きな笑いに包まれる。


 佐川はモニターを見ながら、安堵の息を漏らした。だが、その場を救ったのは彼の采配ではなかった。萌自身の機転と勇気だった。


 収録後、楽屋に戻った萌は椅子に腰を下ろし、大きく息を吐いた。

 「ふぅ……なんとかなったね」


 「いやあ、正直ヒヤッとしましたよ。でも萌さん、すごかったです」佐川の言葉に、彼女は少し首を振った。


 「でも……やっぱり大森さんがいないと、不安だよ」その呟きは、小さな声だった。


 彼女にとって、私はただのスケジュールを組む存在ではない。舞台袖から常に目を配り、声をかけ、時に引き上げる影の支えだった。その不在を痛感したのだろう。


 一方で、萌は気づきも得ていた。大森がいなくても、瞬時に立ち回ることはできた。怖かったが、やり遂げた。その感覚は彼女の胸に確かな種を残していた。


 私は熱にうなされながら、スタッフ経由でその報告を受けた。

 

 「……そうか。」短く答えた声が、少し震えていたかもしれない。


 私がいなくても、彼女は乗り越えた。誇らしくもあり、寂しくもあった。だが何より――その瞬間に成長する彼女を信じていた自分に、わずかな救いを覚えていた。

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